『暮らしの音〜世界で一番素晴らしいこと〜』
5月14日 Azofra → Ciruena
アゾフラの一見古くて暗いアルベルゲは意外と寝心地が良く、昨夜は22時には寝袋に潜り込み、気がつくと朝になっていた。ダイニングルームの窓から外を眺めると、空はカラッと晴れわたっていて、今日も良い天気になりそうだった。
昨日Ventosaで会ったマスターが教えてくれたことを思い出して早速実践してみた。ゆっくりと支度をしながら、自分の心の声に耳を傾ける。すると「今日は何だか歩きたくないなー」ふとそう感じた。
僕はいつも寝袋をバックパックに紐でくくりつけて歩いていたのだが、いつも一回で決まる結び目が今日は何回やっても決まらない。結び方は同じはずなのに、何度結んでも寝袋は力無くダラっと垂れ下がるばかりだった。
「今日は休んだ方が良いのかもしれない。次の村に宿を取ろう」そう考えながら出発した。昨日はこれまでで最長の35.8kmの距離を歩いたのだ。どうやらその疲れを今日に持ち越してしまったらしい。
歩き出しても全く気持ちは乗って来なかった。歩きたくないのに歩くのは、食べたくないのに食べることに似ていると思う。
しばらく歩くと、Ciruenaの村に到着。村に足を踏み入ると、そこには奇妙な静けさがあった。村には綺麗な道が敷かれ、立派な家が建ち並び、広い公園もあった。
だがそこには人っ子一人いなかった。
本来人がいるはずの空間に全く人がいない、背筋が凍おるような光景だった。自分がSFの世界に迷い込んだかのような気分になる。”この村で一体何があったのだろう…”そんな薄ら寒い気持ちで無人の住宅街を通り抜けた。
ゴーストタウンを抜けると、今度は確かに人が住んでいる元々のCiruenaの村が現れた。”人がいる”と思うとホッとして温かい気持ちになった。人がそこにいるという、ただそれだけで心は温かくなるのだと知る。
シルエーニャは小さな村で、村にはアルベルゲが2軒、バルが1軒、教会もあった。時刻はまだ10時だったが、朝一に決めた通り今日はこの村でゆっくり骨休めすることにした。ひとまずバルに立ち寄ると、コーヒーを注文してテラス席に座る。小腹も空いていたのでバックパックの中に押し込まれていたパンを取り出して頬張った。
パンとコーヒーの朝食を食べながら、昨夜途中で中断していた日記を書き始める。パラソルのないテラス席には温かい日差しが降り注ぎ、少しひんやりした風が開かれたページをパラパラとめくった。とても解放的な気分の中で時間はゆっくりと流れていた。足にすり寄ってくる猫のように、心地の良い時間が僕のそばにどこからともなくやって来たようだった。
バルには暑さと歩くことに疲れた様子の巡礼達が、一時の涼あるいは食事を求めてやってきては歩き去って行った。バルでのんびりと過ごしているうちに気が付けば12時を回っていた。
バルの目の前にはアルベルゲVictoriaと書かれた建物があった。今夜の宿を早めに確保しておこうと考えた僕は、コーヒー代を支払うとバルを出てそのアルベルゲへと行ってみた。
アルベルゲの入口には若い巡礼カップルがおり、宿の主人と思しき男性と何やら話をしていた。だが、彼らは中に案内されることなく、男性に何かのチラシを渡されると、身振り手振りの案内を受け、そこを去って行った。
彼らが行ってしまってから、僕もアルベルゲVictoriaを訪ねて主人に話を聞いてみた。彼の話によると、今僕がいる建物はVictoriaではなく、数100m先の本当のVictoriaがある場所を教えてもらった。(後から考えたら、そこはVictoriaの別館だったのかも知れない)
教えられた道をアルベルゲへ向かってトコトコと歩いていると、散歩中らしい車椅子のおじいさんと出会った。彼はわざわざ立ち止まり、アルベルゲへの道を熱心に教えてくれた。その親切心に心がまた温められたし、この村のことがすっかり好きになってしまった。
辿り着いたアルベルゲVictoria(おそらく本館)はとても綺麗な建物で、一軒屋ではなく同じ形をした家が壁で繋がり、数軒の家が連なって建っていた。その端の一軒がVictoriaのようだった。入口の階段を登り、ドアノブに手をかけたが鍵は閉まっていて、ベルを鳴らしても反応がない。
「あれ、まだ開いていないのかな」と思いながら階段を降りると、階段の登り口に矢印のマークがあった。「矢印が示す隣の家がアルベルゲか!」と思った僕は、隣の家のベルを二回鳴らしてみた。結果、普通に違う人の家だった。出てきたおばちゃんもビックリしていたが、今回が初めてではない様子で、
「アルベルゲは隣だよ!」
と教えてくれた。
慌てて謝り、最初に尋ねた家のベルをもう一度鳴らしてみたが、やはり反応がない。どうやらまだアルベルゲの開く時間ではないらしい。仕方がないので、アルベルゲの目の前に置かれたベンチに腰を下ろして、のんびり待つことにした。
アルベルゲの向かい側は広い小麦畑になっていた。チョコを食べながら風に揺れる小麦をぼーっと眺めていると、先ほど間違えて尋ねてしまった家のおばちゃんが出てきて、
「アルベルゲのベルを鳴らしてごらん!」
と助言してくれた。鳴らしても応答が無いことを説明すると、
「まだ開く時間じゃないのかもね。」
と言い、出かけて行った。見ず知らずの巡礼のことをこんなに気にかけてくれるなんて。この村の人達は本当に親切だ。
アルベルゲの前でしばらく待っていると、今度はフランス人のおじさん二人組が現れた。彼らも今夜はVictoriaに泊る予定らしい。彼らとそこで世間話をしていると、宿の前に一台の車が停まり、中年のスペイン人女性が買い物袋を抱えて車から降りてきた。彼女こそアルベルゲVictoriaのオスピタレアで、建物のドアの鍵を開けると僕らを中へ案内してくれた。
アルベルゲの内装は”Victoria”の名にふさわしいもので、飾られた美術品から上品で華やかな雰囲気が漂っていた。何だか汗臭い自分の身なりが場違いに感じてしまう。アルベルゲはただ綺麗なだけではなく、設備も完璧で、必要なものは全て揃っていた。夕食と朝食が付いて24€はこれまでの宿と比べて安くはないが、このアルベルゲにはそれに見合うだけの価値があると思う。
一階がダイニングルームになっていて、そこで受付をしてもらうと上の階へ案内された。寝室は日当たりの良いベランダ付きの6人部屋で、その明るさと清潔さ、少人数がゆえの静けさがとても気に入ってしまった。
ベッドを決め、荷を下ろすと、シャワーを浴びて洗濯をした。一通り身の回りのことを済ませると、日記を書き(日々情報量が増えていくようで、日記を書く時間も長くなってきている)明日の計画を立て、夕食の時間まで村の中を散歩した。
シルエーニャは数十分で一周できるほど小さな村だった。村の教会の前を通り、その近くに据えられていたモニュメントのような昔の農機具をしげしげと観察し、たまにベンチに座って村の様子を眺めていた。家々では夕食の準備が始まっていて、どこからともなくいい香りが漂ってくる。小さな村の日々の暮らしの音、その静かで穏やかで温かい音こそ、今の自分には必要なものだと感じた。
それらはスーッと身体の中へ入ってきて、いつしか心が安らいでいくのがわかった。自分の時間は完全に自分の物だった。それは搾取されても、盗まれても、捻じ曲げられてもいない。清らかな湧き水のように、与えられたままの純粋さをそのまま味わっているようだった。
身体に良い食べ物を身体が喜ぶように、心に良い物を心が喜んでいた。僕らの身体が食べた物で作られるなら、僕らの人生は過ごした時間で作られるのかもしれない。栄養のあるご飯を食べるように滋養のある時間を過ごしてみるのもいい。
アルベルゲの夕食には総勢14名の巡礼達が集まった。皆でワイワイ話しながら、オスピタレアと別館?のご主人が作ってくれた豪華なペレグリーノメニューを頂いた。国籍も年齢も、巡礼の理由も様々な人々が、ワイワイ賑やかに食事を分け合う。僕も必死でリアルイングリッシュについて行こうとしたが、途中で諦め「ふんふん」と”さも内容を理解しているかのように”頷きながら、ただ皆の話を静かに聞いていた。
20時頃には賑やかな晩餐会はお開きとなり、手の込んだ夕食にすっかり満足した様子の巡礼達は、一人また一人と部屋へ戻って行った。僕はその場に少し残り、隣の席に座っていたオランダ人主婦ベルグとアレコレおしゃべりをしていた。
彼女は3人の子を持つ母親で、4ヶ国語を話し、現在オランダからサンティアゴまでの2000kmに及ぶ道を巡礼中らしい。もはやスーパーウーマンというしかない。とても明るく気さくな人だった。何を自慢することもなく、僕の話も真剣に聞いてくれた。その会話の中で、一番印象に残ったのが
「親になるということは、世界で一番素晴らしいことよ!」
という言葉と、そう話してくれた時の彼女のなんとも幸せそうな表情だ。
2000kmを徒歩で旅して、4ヶ国語を操り、旅が終わったら仕事が待っている。そんなスーパーウーマンの彼女が”世界で一番素晴らしい”と教えてくれた”親になる”ということ。そしてこの村にある心安らぐ”暮らしの音”。異国まで旅してきた僕だったが、ここまで来て気づかされた”大切なもの”は、すでに日本での生活の中に、当たり前にあったのかもしれない。
ベルグにおやすみを言うと、部屋へ戻り寝る支度を始めた。僕は一人でいる時間がとても好きな人間だ。好きな時に、好きな所で、好きな物を食べる。誰にも気兼ねすることなく、ガブッとかぶりつくボガディージョは最高だ。けれども今回、国も言葉も文化も違う人達とワイワイガヤガヤ食べるご飯は何物にも替えがたものだと感じた。
それは一期一会のかけがえのない時間であり、同じ時は二度とやってこない。明日になれば僕らはそれぞれのカミーノを歩くことになる。
皆との時間だってやはり自分の時間で、何より人がいるところは温かいのだと感じた。人と共にいる何気ない暮らしの中にこそ、心が求めて止まない大切なことはあるのかもしれない。
人のいない立派なマンションの建つシルエーニャと、古くて小さい家々だが確かに人がいるシルエーニャ。この小さな村には、寒さと、そして温かさがあった。
本日のアルベルゲ
Albergue Turistico Victoria (情報は2023年2月時点のものです)
+34 941 426 105 , +34 628 983 351
albergue@casavictoriarural.com
Open all year 12時〜23時
・一泊10€
・ベッド 16床
・シャワー
・洗濯機
・Wi-Fi
・自動販売機
・インターネット
・自転車駐輪スペース
本日の支出 (1€=125円)
・コーヒー 1.5€
・水、チョコ 2€
・宿代 24€
合計 27.5€(3,438円)
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