『静かな食堂、意味深な言葉〜許すこと、許されること〜』
5月9日 Cizur Menor → Puente la Reina 20.4km
昨日は自分にしては結構長い距離を歩いたし、その疲れもあったので「今日はゆっくり起きて、のんびり歩き始めよう」と考えていたのだが…。
数人の巡礼達が、早朝まだ真っ暗で何も見えないような時間帯から準備を始めた。そのドタバタする音に強制的に起こされる。一度は無視してそのまま寝たのだが、みんなが一斉に準備を始めるとさすがに寝ていられなくなり、しぶしぶ起きることにした。時刻は5時50分。
昨夜のうちにある程度の準備は済ませていたので、支度はすぐに整った。6時半頃には朝食を食べに食堂へ向かう。フランス人のユピ、ピエール夫妻、それにカッコいいタトゥーを入れたカナダ人おじさんと朝の挨拶を交わし、彼らが座るテーブルに着いた。
3人はすでに朝食を食べ終えた様子で、今日の行程についてあれこれ話をしているところだった。その話の中でユピさんが、
「ペルドン峠の手前にサリエギ村という小さな村があるの。そこを過ぎると峠を越えるまで村はないから、水や食料はそこで調達しておいた方が良いわ。シズールメノールからサリエギ村までは2時間弱の距離だと思う。」
とアドバイスしてくれた。加えて今日の目的地プエンテ・ラ・レイナのおすすめアルベルゲも教えてくれた。
ユピさんはフランス人なのだが、僕と同じアジア人の容姿をしていて、僕の知り合いにすごく似ていることもあり最初は日本人だと思っていた。
彼女はカミーノ経験者で、初カミーノの僕に事あるごとに色々とアドバイスをくれた。ユピさんは僕にとってすでにお姉さんのような存在になっていたのだった。パンまで分けてくれた彼女に感謝し、「ブエン・カミーノ!プエンテ・ラ・レイナで会いましょう!」と3人の出発を見送った。
カミーノを歩き始めてまだ4日目だというのに、すでにたくさんの人達に親切にしてもらっている。サンティアゴに辿り着くその日までに、道中で受けた親切を、僕がこれから出会う人々に少しでも返していきたい。そんなことを考えながら、モグモグと朝食を食べた。朝食を食べ終えると、まだ薄暗く街灯の灯るシズールメノールを出発した。
朝のキリッと冷たい空気の中を歩いていると、次第に空が明るみ始めた。やがて眩しいほどの朝日が大地を照らすと、まだ青い小麦畑では太陽の光が穂のようになり、黄金の波のようにうねり輝いた。
僕ら巡礼は西へ西へと進むため、朝は前方に伸びる自分の影を踏みながら、昼からはその影を引き連れて歩くことになる。スカッと青く晴れた空、風に波打つ小麦畑、今日も良い天気になりそうだった。
サリエギ村までは特に何もなかった。延々と続く小麦畑の中を2時間ほど歩くと村に到着。ユピさんの言う通りだった。まずは食料を調達するべく村の中へ進んで行くと、目当ての食料品店の前にユピさん達を見つけた。今朝アルベルゲで別れてからまだ2時間しか経っていないが、再会できるとやはり嬉しい。
だが再会を喜んだのも束の間、休憩を終えた2人は一足先に出発して行った。峠越えのための食料を無事に調達すると、村の水飲み場で台湾の奥様方とも再会。
彼女らは親切にも「今夜一緒のアルベルゲに泊まらない?料理の作り方も教えるわよ!」と言ってくれた。しかし、今朝ユピさんに勧めてもらったアルベルゲに泊まろうと考えていた僕は、そのお誘いをやんわりと断ってしまった。
サリエギ村を出ると、いよいよペルドン峠越えが始まった。序盤、台湾の奥様方(女性3人、男性1人)とワイワイ楽しくお喋りしながら歩いていると、さほど疲れを感じなかった。
「あれ、意外とすいすい歩けるじゃん」
僕はそうたかをくくりかけた。
中盤、道の傾斜がだんだんきつくなってくると、奥様2人は「きついよ〜!」と言いながら次第に遅れ始め、逆に旦那さんはその健脚でだいぶ先まで行ってしまい、グループのリーダー的女性スプリングと僕は、間延びしたグループのその丁度真ん中辺りでヒーヒー音を上げながら歩いていた。やはり峠は峠、すいすいと歩けるはずもなかった。
峠を登りながら、台湾人グループのリーダー、スプリングと話をさせてもらった。歩くのが辛い時は、人と話すことが一番の解決策になる。
今回2度目のカミーノを歩く彼女は、僕の母と同じぐらいの歳場(50代後半)で、小柄で明るく、とても優しい人だった。
あるスペイン人神父さんとの出会いが彼女をカミーノへと導いたらしい。母国スペインを離れ、かつて台湾で神父をされていたその方に、彼女はとてもお世話になったとのこと。
「彼のことが大好きだったの。とても素晴らしい人だったわ。彼がスペインへ帰らねばならなくなった時は、とてもとても悲しかった。彼が台湾を去った後、また彼にどうしても会いたくなって彼の所在を調べ始めたの。」
「その時、唯一の手がかりとして残っていたのがカミーノに関する本だったわけ。そうして1回目のカミーノを歩くことを決めたの。」
彼女はカミーノを歩くことになった経緯についてそう話してくれた。人を探すためのカミーノもあるのだ。本当に多くの出来事が、目には見えない糸でカミーノに結ばれているらしい。
中谷光月子さんの本に、巡礼のシンボルであるホタテ貝について書かれている箇所がある。
「貝の形が各地からサンティアゴに集まる様子を表している。現在の巡礼路を示す看板にも貝がちゃんと描かれている。」
何気ない日常の中に突然サンティアゴへの印を見つけた巡礼達が、世界各地からやって来る。なんと不思議なことだろう。その糸は”なぜ”そして”どこから”伸びているのだろう。
スプリングはもう一つ、彼女の仕事についての興味深い話を聞かせてくれた。彼女は台湾の大学で心理学を教えていたことがあるらしく、主に心に問題を抱えた子供達のケアが専門で、学生達に教えるだけでなく実際に現場に出て、多くの子供達と向き合ってきた。
「子供達の中には、何らかの理由で周りの人達に対して自分の気持ちを上手く表現できず、周りとコミュニケーションが上手く取れない子共達がいるの。」
「でも、なぜなのかは本人達にもわからない。今自分に起きていることが、その子達自身にさえわからないのよ。」
わからないことは、自分の一部として扱うことも、ましてやそれを他人へ伝えることなどできない。そんな問題を抱えた子供達をケアする時、彼女はよく”おもちゃ”を使うらしい。
「子供達の前にたくさんのおもちゃを用意して、好きなおもちゃで、好きなように遊んでもらうの。この方法は子供達に驚くほどの効果をもたらしてくれる。子供達は好きなおもちゃを手に取り自由に遊び始める。そうしたら、遊んでいる子供達に私は尋ねるの。
『このおもちゃは何?』
『なんでこれが好きなの?』
『今何しているところ?』
という風に。すると子供達は『これは〜で、〜をしているところ!』と少しずつ答えてくれるようになる。そうすると、おもちゃの向こう側にある、子供達の物語が次第に浮かび上がってくるの。」
「子供達自身が無意識のうちに胸の奥にしまい込んだ物語が反応し、立ち上がってくる。例えば、交通事故のトラウマを抱えた子供はバスと車をガシャーンとぶつけたりすることもあるわ。」
心の中にしまい込まれた物語の多くはトラウマで、大きなストレスから自分自身を守るため”無意識”に、辛い記憶を心のずっと奥へと隠してしまうらしい。見えないかさぶたで塞ぎ、時が癒してくれるのを待つということだろうか。
その話を聞かせてもらった後、ふと思った。”今自分に何が起きているのかわからない”という状況は子供達に限った話ではないのかもしれない。
自分の物語を心の奥にしまいこんだまま、その物が落とす影に無意識のうちに影響を受け続けている、”かつての子供達”が僕ら大人の中には多くいるのではなかろうか。
自分を省みた時、「そもそも僕はなぜカミーノへやって来たのだろう?」という疑問が浮かび上がった。僕は僕自身の物語を、カミーノを歩くことを通して見つけなければならないのかもしれない。
スプリングの興味深い話に聞き入っていると、いつの間にか峠を登り切っていた。辿り着いた頂上からは、四方に広がるナバーラの雄大な景色と、風を受けて元気良く回るいくつもの風車が見えた。そこは銅板で型どられた巡礼のモニュメントがあり、モニュメントをバックに皆でしばらく記念撮影をした。
中世の頃の巡礼には多くの危険が伴った、と本で読んだことがある。命を落とす巡礼も少なくなかったらしい。モニュメントの巡礼達の姿からは、”もっと先へ!””必ずサンティアゴへ!”という中世の巡礼達の覚悟のようなものを感じた。
記念撮影を終えると、リュックが肩に食い込む痛みに耐えかね、しばらく休憩することにした。峠の上を吹き渡る風はとても心地良く、遠くまで広がる景色を眺めていると開放的な気分になった。腰を下ろして涼んでいるとスプリングがやって来て、
「知ってる?ペルドン峠のペルドンはスペイン語で”許してください”という意味なのよ。」
と教えてくれた。
この峠には”悪魔が信仰を試す”という言い伝えがあり、また”巡礼者の怒りや悲しみ、しがらみを手放す道”とも言われているらしい。今回はカラッと晴れた天気で、しかも友達とおしゃべりしながら歩いたのでなかなか実感が湧かなかったが、濃霧の立ち込める峠道を1人トボトボ歩くとなれば、先の見えない道を歩く巡礼を、悪魔が試してもおかしくないのかもしれない。
濃霧の峠道は、夢や目標という頂へと歩き続ける人達の日常にもある。周りの疑念が濃霧のように立ち込め、悪魔がささやき、道の輪郭がぼやけて自分の現在地と道しるべを見失う時、僕らは試されるのだ。『未来を信じる』ということを。『それでも一歩進む』ということを。
峠を登ったら、次にやらなければならないのは、その峠を下ることだ。スプリングと一緒に記念撮影をして、休憩中の台湾の奥様方にしばしの別れを告げると峠を下り始めた。
下りは、石のゴロゴロ転がる急な坂道で、ピレネーを下る時と同様に膝が痛み始めた。一方頭の中では”許す”ことについてあれこれ考えていた。
過去の自分自身の行いに対して、あるいは誰かが自分に対してしたことについて、過ぎたことなのに”許せない”でいる自分が常に心の中にいるのを感じていた。「なぜあの時あんなことをしてしまったんだろう」「あんなこと言わなくたって良かったのに」そんな怒りや後悔や自責の念に駆られてしまうこともよくあった。
次々に押し寄せてくるそれらの想いを、消そう消そうと躍起になることは、逆に火に油を注ぐようなもので、いよいよそこから抜け出せなくなってしまう。厄介なことに「許せない」想いは現実的な重みをも持っているようで、心も段々重くなり、軽やかに生きられなくなる。もはや”許さない”ではなく逆に自分自身が”許されない”状態になっていく。
誰かを、自分を、何かを”許さない”ことによって、1日の内に一体何度自分自身の首を締めているのだろう。とても狂気じみているが、それは確かに起きていた。「許さない」ことで得することなど何もなく、いつか許さなければならない、と頭ではわかってはいても、ではどうしたら”許せる”のか、あるいは”許される”のかがわからないことが問題だった。
何だかモヤモヤしながら歩いているうちに、いつの間にか峠を下り終えていた。気づけば、僕は一人広い小麦畑を横目に見ながら平坦な道を歩いていた。地上には太陽の温かい光が降り注ぎ、青々とした小麦畑はやはり気持ち良さそうに風になびいて揺れている。なんとも心を穏やかにしてくれる風景だった。
そんな景色の中を歩いている時、ふと、「許さなくても良いのかもしれない」と思った。
もしも、自責の念や後悔が僕の心を締め付けるなら、それを手綱にすればいい。もう二度と道を踏み外すことのないように、もう誰も傷つけなくて済むように。鋭くトゲのついた言葉を受ける日はそれを鞭に奮い立とう。逆風も帆の向きを変えれば追い風になる。風は利用されるために起こるのだ。
呼び名や見方をを変えたら、マイナスもプラスに、デメリットはメリットに転じる。すれ違う時には、半歩譲れば相手とはぶつからない。もしかしたら、相手も半歩譲りたくなるかもしれない。
生きている時間は今この瞬間にも、僕らを乗せて全力疾走する馬のように進んでいる。縛られることに縛られず、縛られないことにも縛られず、どんな困難に出会おうと、僕らは
「今ここですぐにでも前を向いて、今そこにある幸せに気持ちを向けて生きることができる。」
僕らがこの世界に生まれ、今こうしてここにいられるということは、「幸せに生きる」ということが、いつも、そもそもの始まりからずっと「許されている」のだ。
幸せはどこか遠くにあるのではなく、僕らが今走っているレーンのすぐ隣にあるのだ。それは隣の車線であり、その間にはただ白い線が引かれているだけ。僕らは望みさえすればいつでも車線変更できるのだと思う。
そう考えた時、身も心もスーッと軽くなった。「こうして、ここにいられることがありがたい」そう思えるようになった。
13時にはプエンテ・ラ・レイナに到着。朝食の席でユピさんが勧めてくれたAlbergue Puenteも迷うことなく見つけることができた。アルベルゲは開業してまだ間もないかのようなピカピカで洒落た建物だった。
アルベルゲの中へ入ると、丁度ユピさん夫妻が受付をしているところだった。お互いに今日の健闘を称え合い、無事に再会できたことを喜び合った。僕はこの「巡礼同士が互いを労う瞬間」がとても好きだ。同じ気持ちを共有できることがこんなに嬉しいことなんだと、カミーノで知ることができた。
ベッドを確保したユピさん達は「シエスタする!」と言って部屋へと向かった。オスピタレアは明るく親切な人だったし、部屋のベッドも整っていて清潔感があり、ユピさんがここを人に勧めたくなる気持ちがわかる気がした。
峠越えで身体はクタクタだった。お腹も空いていたので、荷を下ろすと昼食を買うためオスピタレアに教えてもらった近所のスーパーへと出かけることにした。
丁度アルベルゲを出ようとしたところで、昨夜宿が一緒だったフランス人おじさん二人組に会う。「ビールでも飲みに行かないか?」と誘ってくれたが、出かける気になれなかったので丁重に断った。二人は少し残念そうだった。
スーパーはアルベルゲから徒歩10分ほどの場所にあった。アルベルゲに到着したままの格好で、汗も拭かず着替えもせずに来てしまったので、冷房でキンキンに冷えたスーパーの中は冷蔵庫の中のように寒く感じた。パスタとボガディージョを作ろうと、トマトソース、パスタ、リンゴ、パン、チーズを購入。
アルベルゲへ戻ると、早速昼食の調理に取りかかった。調理といっても、ただパンを切り開いてチーズを挟んで終わりだ。巡礼達はシエスタ中なのか、出かけているのか、それともまだ到着していないのか、食堂はガランとして誰もいなかった。
ささっとボガディージョを作ると、誰もいない広い食堂の窓際の席に座り、窓から見下ろすようにしてプエンテ・ラ・レイナの町並みを眺めるともなく眺めながら一人で食事をした。
自分の使う食器の音だけが響く静かな食堂。窓が切り取る見知らぬ町の見慣れぬ景色。たまに、近くでスペイン人のおじさん達が道の工事をする音が聞こえてくる。
「僕は今、どこにも属しておらず、異国にいて、誰も知らない時間のエアポケットの中にいる。」
それに気づいた時、僕の心は自由と孤独を感じた。
不安と興奮が入り混じり、存在が研ぎ澄まされるような感覚があった。”今自分は生きてるんだ”そう感じた。食事を終えるとベッドに戻り、泥のように眠った。
夕方になって目を覚ますと、それほどお腹は空いていなかったが、明日のために何か食べておこうとキッチンへ行ってみた。そこでスロベニア人母娘がコンロの使い方に苦戦しているのを発見。使い方を教えてあげた。
依然として誰もいない食堂の、昼食の時と同じ窓際の席に座ると、ヨーグルトとオレンジジュースの簡単な夕食を食べながらしばしらく日記をつけていた。
日記に文字を書き連ねながら自分の世界に浸っていると、先ほどのスロベニア母娘の娘さんが「コンロの使い方を教えてくれたお礼に」と、いちごを1パックくれた。
予期せぬお礼に嬉しい気持ちになる。いちごはとても新鮮で美味しかった。そのいちごのやり取りを皮切りに、彼女と国や言葉やカミーノについて色々と話をさせてもらった。
しばらく二人であれこれ話すと、楽しい会話の締めくくりに彼女は言った。
「カミーノで起こることは、全て、喜んで、受け入れなければならない。それらはあなたにとって良いことだから。そして、」
「一度始めたものは終わらせなければならない。」
彼女の言った言葉は何かを暗示しているように意味深に響いた。
プエンテ・ラ・レイナは結局観光できずじまいだった。なので僕がプエンテ・ラ・レイナの町を思い出す時にそこにあるのは、アルベルゲの静かな食堂で感じた自由と孤独、そしてイチゴをくれたスロベニア人母娘の娘さんが言った意味深な言葉だけだった。
本日のアルベルゲ
Albergue Puente (情報は2023年2月時点のものです)
+34 661 705 642
www.alberguepuente.com
susacruces@hotmail.com
・12€(朝食込み)
・ベッド 36床
・シャワー
・キッチン
・洗濯機
・ドライヤー
・Wi-Fi
・自動販売機
・自転車駐輪場
・Holy weekから11月15日まで 12時〜22時
本日の支出(1€=125円)
・食材 2.9€
・宿代 13€
合計 15.9€(1,987円)
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