『小石と銀河〜祈りと天秤〜』
5月17日 Villafranca Montes de Oca → Cardanuela Riopico 25.5km
カミーノを歩き始めて12日目。昨夜は20時には横になっていたせいか、今朝は6時前に目が覚めた。窓から外を見ると、厚い雲がどんよりと垂れ込めていて、外はまだ真夜中のように暗い。今日は雨の予報だったが、幸いまだ降り始めてはいないようだ。雨が降り出す前に歩き始めようと思い、急いで支度をすると7時前にはアルベルゲを出発した。
昨夜のうちにすでに一雨降ったらしく、道はぬかっていてあちこちに水溜りができていた。辺りはまだ暗くて何も見えないが、道の上だけは砂利の白さゆえにほんのりと明るく、電灯なしでも安全に歩くことができた。
だが歩き始めて15分後、ついに雨が降り出した。サン・ジャン・ピエド・ポーで買ったポンチョをバッグパックから引っ張り出して、頭からバックごと被る。ポンチョは着やすくてとても便利だったが、唯一の弱点は膝から下が覆いきれずに濡れてしまうことだった。
「昼なお暗い」と言われるオカの森は、空を覆った灰色の雲と降り出した雨も相まって、より一層暗く陰鬱な雰囲気を帯びていた。中世の頃は山賊の根城にもなっていて、彼らに命を奪われる巡礼も少なくなかったらしい。当時のオカ越えは、まさに命懸けであったに違いない。
暗い森、泥んこの道、止まない雨、休める場所はなく、バックパックが食い込み両肩が痛い。そんなこんなで、歩いていると次第に気が滅入ってきた。そんな冴えない気持ちで一人とぼとぼと歩いていると、道の真ん中に面白い物を見つけた。それは、小石を集めて描かれた
「LOVE」
「Hola!」
「Go eat」
などのメッセージだ。先を歩いている巡礼達が、後に続く巡礼達を励ますために残してくれたものらしい。それら石のメッセージは他にもたくさんあった。辛いのは彼らも一緒で、きっと疲れていたに違いないが、彼らは仲間を励まそうと行動してくれた。その石のメッセージからは愛や思いやりが感じられて、笑顔になれたし胸が熱くなった。
石のメッセージに励まされた僕は、再び元気になりオカの森を歩き続けた。出発から2時間半、ついに山を越えサン・フアン・デ・オルテガの村に到着。ろくに休める場所もなく雨に打たれながら歩きっぱなしだったせいで、くたくたに疲れていたし、身も心もすっかり冷え切ってしまっていた。サン・フアン・デ・オルテガの村の中へ進むと、僕はすぐにコーヒーの安らげる香りと温かさを求めて村の入口の小さなバルに入った。
木の温もりを感じる店内には、静かなヒーリングミュージックが流れており、壁際に据えられたディスプレイには美しい自然の風景が映し出されていた。カッパを脱ぎ、バックパックを下ろし、やれやれといった感じで席に着く。中世に比べれば格段に歩きやすくなったとは言え、オカの山越えはやはり難所。僕はやや疲れを感じていた。
物静かな店主が運んで来てくれた温かいコーヒーとトルティーヤは、冷たく硬直していた僕の身体を温め、解きほぐしてくれた。実際のところ、手はまともにカップを握れないほどに震え、冷たくカチカチに固まっていた。ヒーリングミュージックとディスプレイに映し出された美しい風景は、耳と目から心へと染み渡り、気分は段々と和らいできた。厳しいオカの山越えの疲れを癒すのに、これ以上のバルはないかもしれない、そんな癒し系のバルだった。
長いことバルで寛いでいた。気がつくと音楽は止んでいて、身体はすっかり温まり再び歩く活力がみなぎっていた。癒しをありがとう!店を出て雨の止んだ道を再び歩き始めた。
サン・フアン・デ ・オルテガを発って、歩くこと4km、アヘスの村に到着。村の家々、看板から軒先の置物まで、アヘスには何だか可愛らしい雰囲気があり、興味をそそられた僕はしばらく村を散策してみることにした。
村には公営のアルベルゲがあり、そのすぐ向かいに屋根付きの雨風をしのげる休憩所があったので、そこで一休みすることした。バッグパックに押し込まれていたパンを引っ張り出してモグモグ食べる。すると、少し離れたところにに古い教会があるのが見えた。
教会の建物の天辺には大きな鳥の巣が乗っかっていて、家主の鳥も巣の中で何やらゴソゴソと動いていた。(教会の天辺に鳥の巣がある光景を巡礼中何度も見かけた)何だかその教会が少し気になったので、ちょっと覗いてみることにした。
教会はとても古く、なんだか寂しい佇まいをしていた。中も気になったが、扉には鍵が掛かっていて中には入れなかった。外観をひとしきり眺め、ひとまず気も済んだので、教会を立ち去ろうとした時、教会の門の外から一人の老婆が歩いてきた。そして僕の所までやって来ると、何やらスペイン語で話しかけてきた。
スペイン語の意味はわからなかったが、手に持った鍵と身振り手振りから
「中へ入りたければ入れてあげるから、少し待ちなさい。」
と言ってくれているようだった。有難い申し出に感謝すると同時に、彼女はどこから僕のことを見ていたのだろうと疑問に思った。
老婆に導かれるがままに薄暗い教会の中へと入った。中は外から見るよりずっと広く感じた。壁には磔にされたイエス、死んだイエスを抱きかかえるマリア様などの宗教画が飾られており、キリスト教徒ではない僕にとって、それらの悲劇的な美術品達にただ心が痛むばかりだった。
幸いにも、教会の中央に据えられた祭壇には、”生きたイエス”がいたり、”死んだイエスを抱えていないマリア様”などのレリーフが飾られて、明るい気持ちになれた。その祭壇の真ん中には鏡が置かれており、老婆によると
「ある角度から見ると、窓から教会に差し込む光が鏡に反射し鏡が輝く。そこを撮影しなさい。」
とのことだった。ほとんどの教会は写真撮影NGだが、アヘスの老婆は積極的に撮影のアドバイスをしてくれて、
「どんどん撮りなさい。」
と言ってくれた。
教会を見学している最中、老婆が
「お前はどこから来た?」
と尋ねてきたので、
「日本からです。」
と答えると、
「寄付をしていけ。」
と言われた。突然の要求と有無を言わせぬ口調に、「寄付するけど…何だかな…」とどこか釈然としないものを感じた。
だが「わざわざ教会の鍵を開けて見学させてくれたし、撮影のアドバイスもたくさんしてくれたんだから」と思い直した僕は、
「グラシアス。」
とお礼を言い、幾らか渡して教会を出た。
教会から明るい外の世界へ戻ると、アヘスを出発した。歩き始めた僕の頭の中には、あるコントラストが浮かんでいた。それは、商売だがコーヒーとチョコラテに素敵な笑顔を添えてくれたベロラードのバルのおばちゃんと、神に仕え撮影を促し最後に寄付を要求する老婆。その二人が僕に抱かせた明と暗の印象、商売と信仰。
そのコントラストは僕に何か大事なことを告げているような気がしてならなかった。なぜ教会を出る時にどんよりした気分になっていて、ベロラードのバルを出る時にはこの上なく幸せな気分になっていたのか。これはあくまでも僕個人が感じたことであって、多くの人は「いや、それは違う。」と言うかもしれない。だがそれがビジネスであれなんであれ、僕は心を温めてくれる方を”善きもの”だと信じたい。
アヘスを出発してしばらく歩くと、アタプエルカに到着。アタプエルカでは80万年前の人類の化石が見つかっており、人類の歴史には大きな意味を持つ場所だった。だが、僕は歩みを止める気になれず軽食だけ取ると早々に村を出た。
アタプエルカを出ると、大きな石がゴロゴロ転がる登り坂に苦戦する。一歩一歩転ばないように気をつけながら息も絶え絶え登り切ると、そこには大きな木の十字架が立っていた。
薄暗い天気の中、風に吹かれて立つ十字架からは、何か重々しい雰囲気を感じた。その十字架の根元には、巡礼達が祈りを込めて積んでいったのであろう石が、山のように積まれており、十字架の柱には巡礼達の思い出の品々らしき物がくくりつけられていた。
”何だかこの十字架は電波塔みたいだな”と思った。人々がここで捧げた祈りを、絶えずどこかへ発信し続けているように感じた。時を超え、場所を越え、絶対的正確さで誰かの心の受信機へと祈りを飛ばしているようだ。そして人々の祈りは、絶えず揺れ動く世界の天秤を「善い方」に傾けているのかもしれない。
先に十字架に辿り着いていた巡礼から写真撮影を頼まれた。それに応じると、僕も記念に一枚撮ってもらった。木の十字架に別れを告げて先へ進むと、今度は地面に大きなストーンサークルが現れた。巡礼達がそこを通る度に一つずつ石を置いていき、いつしか大きな円になったのだと思われる。
銀河に渦巻く星々のようなストーンサークル。皆が一つのために、その一つを皆のために。その小石の輪には、愛と平和に対する祈りが込められているような気がした。僕も小石を一つ積ませてもらうと、心が震えた。仲間やマスターとハグをした時のような愛を感じた。自分が大きな円の中の一つとなり、愛と平和のために祈りを捧げることでとても幸せな気持ちに包まれた。と同時に、いまこの瞬間目には見えないたくさんの仲間達と繋がれたような気もした。目には見えない輪というものも、そこにはあるに違いない。
僕ら人は、命という一つの石を持ってこの世界に誕生する。それをどのように使うかはその人次第。その石をどこに置くかは自由。ある石はずっとその場に留まり、ある石は勢い余って谷へ転がり落ちてしまうかもしれない。ある人はその石を、何か壮大で素敵な絵を描こうとして動かすかもしれない。大きな絵を描くには、きっと一つの石だけではできなくて、同じ情熱を持つたくさんの仲間達と協力して助け合って、一つの絵になるように調和を生み出さなければならない。
僕が感じたことは、それこそが僕らの生まれてきた意味なのではないかということ。僕らはもともと一つのところからやってきて、皆で一緒に何かを成し遂げるためにこの命はあるのではないだろうか。
なぜなら、誰かを想う時や誰かの役に立てた時、嬉しい気持ちや悲しい気持ちを分け合えた時に、一番生きていると感じるからだ。そういう時に心に充足感を感じて、命が喜んでいる気がする。
そこにはいつだって人としての本物の幸せがある。そして、その幸せな気持ち以上に人が強く求めるものはないのかもしれないと思う。
いますぐにできることは、もしかしたら道端の小石より小さいかもしれないし、あまりに微力かもしれない。けれど、巨大な石を三つ並べるよりも、姿形も違う小さい石を100個並べた方が、より大きくて複雑な模様が描けるはずだ。カミーノを日々歩き続けるように、小石を日々積み続けるしかない。
今日という1日がその人の人生の美しい模様を紡ぎ、一人一人の人生が人類という大きな曼荼羅を織り成している。皆で一緒に絵を描くなら主題は一つしかないと思う。
『人類皆幸せであること』
この幸福な世界のために石を積み始めることにしよう。きっと本物の銀河も恋い焦がれるに違いない、この青い星に描かれる壮大でドラマティックな生きた絵画に。
今日は朝から”小石”に勇気づけられた1日だった。
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