【サンティアゴ巡礼】フランス人の道 -10日目 –

サンティアゴ巡礼記

『温もり〜羊飼いと星の導き〜』
5月15日 Ciruena → Villamayor del Rio 23.9km

 今日は本当に長い1日だった。

 朝5時半にパチリと目が覚め、支度を終えると一階のダイニングでパンとコーヒーの朝食を食べた。

 出発直前、バックパックを背負う前に10回深呼吸をした。まずは心のモホンを確かめる。
「大丈夫。心はちゃんとここにある。」
 今日は心を探しに行く必要はなさそうだ。いや逆だ、心を置いてけぼりにしているのは、いつも自分の頭や身体の方だった。

朝涼しい時間帯のカミーノを歩く。

 今日も朝から良い天気で、巡礼路の美しい景色の中を歩き始めた。聞こえるのはザクザクと石を踏みしめて歩く自分の足音だけ。何かを考えながら歩いていた気もするが、実際は何も考えていなかったかもしれない。1時間ほど歩くと、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダに到着。

 サント・ドミンゴの町はその昔、巡礼の過酷さを憂いた聖ドミンゴが、自ら森を切り開き敷石の道や橋や救護院を作ったことが始まりらしい。町にはそのまま彼の名が付けられている。

遠くにサント・ドミンゴの町が見えてきた。

 1019年に羊飼いの息子として生まれた聖ドミンゴは、羊飼いとしての日々を過ごしていたが、ある時神に目覚めた。その後神に仕える道を選んだドミンゴはサン・ミジャン・デ ・ラ・コゴージャ修道院で学び、1044年オハ川に橋を架けると、90歳で亡くなるまで敷石の道を造り続けた。

 聖ドミンゴが造った道は、ナヘラからレデシージャ・デル・カミーノまでその距離約30kmにも及ぶらしい。「日々道を造る」それは一生涯をかけた長い巡礼の旅のようだ。聖ドミンゴをその一大事業に駆り立てたものとは一体何だったのだろう。彼の心の火は何によって燃え続けていたのか。そして「神に目覚める」とはどういうことなのだろう。

 聖ドミンゴもそうだが、カミーノには羊飼い達にまつわる伝説が多い。サンティアゴ・デ ・コンポステーラの起源にしたって、813年に一人の羊飼いが星の光に導かれて聖ヤコブのお墓を見つけたことが始まりらしいし、先日訪れたエステージャも、羊飼いが流れ星に導かれて聖母マリア像を発見したところにできた町らしい。星と羊飼いと聖なるもの。そこには一体どんな繋がりがあるのだろう。

 羊飼い達は他の誰よりも星空を眺めていて、星の語る言葉を知っていたのかもしれない。聖ヤコブのお墓を見つけた羊飼いがカミーノ最初の巡礼だとすると、星が最初のモホンだったということになる。

 では、その羊飼いに場所を示したのは一体何者なのか。その意図とは何だったのだろう。巡礼とは一体何のためにあるのだろう。星は何を語り、何を語らないのか。僕たちはもっと星空を眺めるべきなのかもしれない。学者のようにではなく、羊飼いのように。

 サント・ドミンゴの町は想像以上に大きくて、小さなシルエーニャの村から到着した僕は少し緊張して身構えてしまった。聖ドミンゴが眠り、伝説の語り部としてニワトリが飼われているサント・ドミンゴのカテドラルには、巡礼を始める前からすごく興味を持っていた。

 しかし、実際にカテドラルの入口に立ってみると、溢れ返る人混みに滅入り、中へ入る気になれず、そのまま先へと進むことにした。町中のバルでコーヒーを飲み、ATMで資金を調達すると町を出た。サント・ドミンゴを出ると何だか少しホッとした。町にいる間ずっと気が張っていたようだ。

サント・ドミンゴのカテドラル。

 昨夜立てた計画では、リ・オハ州最後の村であるグラニョンに泊まるつもりでいたのだが、サント・ドミンゴの町にいる時から”もっと先へ進まないといけない、同じところに長居し過ぎている”という感覚があった。

 それは焦りではなく、”さもなければ何かに間に合わない”と言われているかのような不思議な感覚だった。なので、予定を変更してグラニョンではトマトソースとバナナだけ買うと、名物のカステラに後ろ髪を引かれながらも村を後にした。

グラニョン。居心地の良さそうな所だったが、今回は縁がなかったらしい。

 グラニョンを出ると、広々とした小麦畑が広がっていた。真っ青な空と濃い緑をした小麦、その2トーンは見ていて全く飽きなかった。その景色になぜかふと懐かしさを覚えながら、どこまでも伸びる白い砂利の道を、一人ザックザックと歩く。

 そうしていると、「もしかしたら、今この瞬間こそカミーノで一番安らげる時間かもしれない」と感じた。宿へ辿り着いた時でもなく、誰かといる時でもなく、長い道を一人で歩くこと。自分が他の誰でもなくなり、他の誰かである必要もなくなり、ありのままの自分自身でいられる時間。

 カミーノを歩くことで、僕は本来の僕に戻れるのかもしれない。

道が遠くまで伸びていると、心も伸びやかになっていく気がする。

 しばらく歩いていると、僕の前を歩いていた女性巡礼に追いついた。年の頃60代後半に見える彼女は暑さに疲れている様子だったが、一歩一歩へこたれずに歩いていた。彼女はオーストリア人で、
「オーストリアとオーストラリアは名前が似ていて間違われやすい!」という彼女の話から始まり、二人でおしゃべりしながら一緒に歩いた。

 しばらくして、
「ブエン・カミーノ!」
と、今度は元気なアイルランド人夫婦が僕らに追いついて来た。お互いに自己紹介を済ませると、四人で歩きながら、あーでもない、こーでもないといろいろな話をした。

 僕はカミーノ歩く前に一ヶ月ほどアイルランドに滞在していた。その時に気づいたことだが、アイルランドの人達はとにかく歩くのが速い!常に僕の二つ上のギアで動いているようだった。夫婦の旦那さんと話しながら歩いている時、僕は彼に歩調を合わせようとやや小走りしなければならなかった。

 ワイワイと話しながら歩いていると、リ・オハ州とカスティージャ・イ・レオン州の州境に辿り着いた。そこで(確かアイルランド人夫婦が言い出した)僕ら四人は円陣を組み、ぴょんぴょん飛び跳ねながら歓喜の叫びを上げたのだった。サッカーの大会で優勝チームが歌を歌いながらするあの円陣だ。僕らはそこで、子供のようにはしゃいだ。

 州境を越えると、皆それぞれのペースで歩き始めた。アイルランド人夫婦はあっという間にはるか彼方に去ってしまい、逆にオーストリア人の女性はペースダウンし、僕はその真ん中で暑さにうなだれながら歩いた。

カスティージャ・イ・レオン州最初の村に到着。

 カスティージャ・イ・レオン州の最初の村へ辿り着くと、木陰に腰を下ろして、水を飲みバナナを食べながら一休みした。そうして涼んでいると、先ほどのオーストリア人女性がやはり暑さに疲れた様子で追いついて来た。彼女の疲れが少しでも癒されるようにと、バナナを一本おすそ分けした。

 彼女はツアー会社に申し込んでいて、自分の歩ける所まで歩き、無理だと感じた時点でツアー会社の人に車で迎えに来てもらうのだと教えてくれた。今夜はすでにベロラードに宿を取っているらしい。彼女の体調を心配していたが、それを聞いて一安心した。

 僕自身も暑さでかなりぐったりとしていた。今日はいつにも増して日差しが強い。歩いていると肌はじりじりと焦がされ、歩くペースを落とさなければすぐにくたびれてしまう。しばらく木陰で涼みながら体力を回復させると、オーストリア人女性を励まし、次の村ヴィオリア・デ ・リオハを目指して再び歩き始めた。

どこまでも高く青い空と広大な小麦畑。たまに心の原風景の中を歩いているように感じることがあった。
ヴィオリア・デ ・リオハ到着。

 聖ドミンゴの生家が残るヴィオリア・デ ・リオハには13時半に到着。今夜はもうこの村に泊まろうかと考え、2軒あるアルベルゲの内の1軒を訪ねてみた。もう1軒のアルベルゲは、屋内から大音量の音楽が外まで流れ出ていて昼間からパーティ模様だったので遠慮した。

 しかし、訪ねたアルベルゲの入口は閉まっており、建物にも人の気配がない。アルベルゲのドアの前に置かれたベンチには先客の夫婦の巡礼がおり、奥さんが旦那さんの足の怪我を手当していた。足に豆ができ、それが悪化してしまったらしい。

 夫婦共にタンクトップとショートパンツというラフな服装をしていて、露出した肌は真っ赤に焼けており、見るからに痛々しかった。彼らはここのアルベルゲに泊まる予定はなく、単に傷の手当のために腰を下ろしていただけのようだった。

 ヴィオリア・デ ・リオハから先は、しばらくの間高速道路に沿って歩かねばならない。だがその夫婦はどうにか高速道路沿いを歩かずに済む迂回路を探しているらしい。やがて傷の手当を終えた夫婦は、通りがかった村人に道を尋ねると出発して行った。

 僕は夫婦が去った後のベンチに座り、アルベルゲのドアが開くのをのんびりと待つことにした。けれど、待てど暮らせどアルベルゲが開く様子はない。ぼーっとベンチに座っていた僕は、気づけばそこで眠り込んでしまっていた。
 
 目を覚ましてもやはりアルベルゲは閉まったままだった。仕方がないのでアルベルゲは諦めて、今はもう朽ち果ててしまった、聖ドミンゴの生家を見ると村を出た。

 丁度村の出口辺りを歩いていると、隣村の名前が書かれた看板を見つけた。好奇心をそそられた僕は、気付けば巡礼路を直角に曲がり、その村の方へ歩き出していた。巡礼路から外れてはいるが、村はそこに見えているし、何もなければ戻ってくれば良い、だがもし村に宿があれば泊まってみても良いな、と軽い気持ちでいた。寄り道は僕の悪い癖かもしれない。

 看板に従いアスファルトの道を1kmほど歩くと、その小さな村に到着した。しかし、なんだか変な雰囲気だな、と思っていたら、その村には人っ子一人いなかった。シルエーニャ同様ここもゴーストヴィレッジらしい。

 建物はあり、教会もある。噴水からはコンコンと水も湧き出ていたが、住民はいなかった。村の家々の内の数軒には生活感もあったし、建設途中の家もあったので、もしかしたら誰か住んでいる人もいるのかもしれない。しかし、村をぐるっと一周しても誰もおらず、シルエーニャと同じで、奇妙な静けさ以外何もなかった。

 シルエーニャと唯一違ったのは、暑さにうなだれて軒下でベターっと寝ているシェパード犬が一匹と、忍者のように半分身を隠してこちらを伺う猫が一匹いたことだ。やっぱり誰か住んでいるのかもしれない。

 何か神秘的なものや、予期せぬ出会いを求め過ぎていたのかもしれない。そういうものは、こちらから近づくと出会えないのだと思う。そう気づいた僕は、お腹も空いてきたし、時間も気になったので、一度ヴィオリア・デ ・リオハへ戻り、少し休憩してから再出発することにした。

 ”ん、あれ?”来た道を戻ってヴィオリア・デ ・リオハの村の広場に辿り着くと、ある変化に気がついた。何だか温かい。それは身体に感じる温かさだった。暑いのではなく、温かい。

 ゴーストヴィレッジを散策している間も今と同じように日は照り続けていたし、村と村の距離は1kmほどで、気温の変化もないはず。にも関わらず、寒い場所から温かい場所へ出てきたような温度差を感じていた。

ヴィオリア・デ ・リオハの広場。

 その”温かさ”は少し前まで誰かが座っていた椅子のような温かさであり、誰かが愛情を持って見守ってくれている時に感じる”安らげる温かさ”のようだった。もちろん、そこに人がいるという安心感もあったのだと思うが、同時に”この道自体にも温度がある”そんな風に感じた。

 それは星の数ほどの巡礼達の足跡が温めたものであり、その巡礼達を助け続ける星の数ほどのスペイン人達の親切と思いやりであり、それらが織りなすドラマによるものかもしれない。あるいは、聖ドミンゴが道の石を一つ一つを敷く際に込めた想いの温もりであるようにも感じた。

 プエンテ・ラ・レイナでは王妃様が橋を残し、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダには聖ドミンゴが道を残した。人が人に尽くすとき、そこには後世にも残る温もりがある。そして、その背後には、人を突き動かす見えない力が働いている。

 今その力を何と呼んだら良いかわからない大きな存在。その眼差しと腕の温もり。この道を外れず、この道の声を聴き、この道が導いてくれる場所へと真っ直ぐに歩いて行けば、その先で出会えるのかもしれない。

 心に温かいものは信じて良いような気がする。見た目や言葉はすり替えることができても、温度はいつも正直だ。

 「温かい方へと歩いて行こう。」

 僕は再び巡礼路を歩き出した。

本日のアルベルゲ

 Albergue San Luis de Francia (情報は2023年2月時点のものです)

  +34 947 580 566
  
  営業期間 3月31日〜10月31日
  12時30分〜22時

 ・一泊5€

 ・夕食8€
 ・朝食3€

 ・ベッド 26床
 ・シャワー 6室
 ・洗濯機
 

本日の支出 (1€=125円)

・エスプレッソ 1.2€
・ATM手数料 5€
・バナナ、トマトソース 2.85€
・宿代 13€
 合計 22.05€(2,756円)

最新のカミーノ情報について

日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会
https://camino-de-santiago.jp/

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