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【サンティアゴ巡礼】- ルピュイの道 – 3日目-2

サンティアゴ巡礼記

Saint-Privat-d’Allier → Saugues 19km

 巡礼路の印を辿りながら山道を登ったり下ったりしていると、次第に霧が晴れてきた。そして、11時過ぎには山道を抜けてアスファルト舗装の道路に出た。遠くに小さな村が見えてくると、雲間から太陽も顔を出してくれた。心がフッと軽くなった。

静かな村の石造りの家々は心を和ませてくれる。

 やがてまた小さな村に着いて、その村を通り抜ける。やはり人はいない。それでも、昔ながらと言ったらいいのか、石造りのフランスの家々は見ていて飽きない。アスファルトの道から、今度は泥んこの轍へと進んだ。進むにつれて青空も見えるようになってきた。Monistrol d’Allier到着。

青空も出てきて、次の村も見えてきた。自然と気分は高揚してくる。

 ここは少し大きな村のようだ。村の中には大きな川が流れていて、最近の雨で水嵩が増したようで、ごうごうと音を立てて勢いよく流れている。その川の上には立派な鉄の橋が架かっていて、それを渡って対岸へ。ちょうどお昼の時間だったせいか、地元の人々の姿もあり、「ボンジュー!」と挨拶。

荒ぶる川の上の鉄橋を渡る。この先にはどんな村が待っているのだろう。

 村を抜ける前に、教会を見ておこうと可愛らしい石造りの家々を通り抜けて進んだ。教会は大きくて綺麗な建物だったが、残念ながら鍵は閉まっていて、写真だけ撮って村を出ることにした。村を出ると上り坂が続いた。傾斜もキツく、2人共無言で息を切らしながら歩いた。

 道の途中、ちょうど先ほど通過した村を見下ろせる場所にベンチが置かれていたので、そこでお昼を食べることにした。マイケルはバックパックに詰め込まれていた食料をパパッと手際よく取り出して、やはり立ったまま食べ始めた。ベンチは2人が十分の座れる長さがあったので、「座れば?」と言ってみたが、「冷たいから嫌だ!」と言って座らなかった。彼は身体を冷やさないようにいつも注意していた。

巡礼の定番食ボガディージョ。食べかけですみません。

 僕は結構服を着込んだまま坂を登り続けたせいで、汗をびっしょりとかいていたので、僕の方は身体を逆に冷やすために服をパタパタと煽がなければならなかった。

 僕らが休憩させてもらったベンチから数メートルのところに、高さ1メートルほどの十字架が立てられていた。十字架が交わるところには天使がいて、両手でペンを走らせている。十字架の根元には母親らしき女性が1人と、彼女にすがるようにピッタリとくっつく子供が3人描かれている。彼らは天を仰ぎ神に救いを求めているように見える。だが、その十字架のデザインの意図するところはわからなかった。

 ふとマイケルに、天使について尋ねてみた。聖書における天使の役割について興味があったからだ。マイケル曰く、「ミカエルは戦士、サタンと戦う者。ラファエルは教えを説くもの。ガブリエルは神からのメッセンジャー。」なのだそう。聖書が書かれる前に天使達はすでに存在していたらしい。

ベンチのそばにあった十字架。どのような祈りが込められているのだろう。

 マイケルはミカエルの英語読みなのだそう。僕とこうして一緒に歩いて導いてくれる彼は、神が引き合わせてくれた紛れもない天使ミカエルなのだと思う。そのことは彼には伝えなかった。

 短い昼食休憩を終えると出発。さらに勾配の急な坂道を登る。歩き始めてすぐに、岩と一体化した教会を見かけた。鍵は閉まっていたので、外から中を覗いたりしてしばらく見学すると巡礼路に戻った。

石と一体になった教会。

 今日は昨日以上にマイケルと話をした。彼は山登りが趣味らしい。話を聞けば結構な頻度で登山をしていた。ドイツにはたくさん山もあるらしい。「山を登っている時、僕は生きてる!って感じるんだ。」彼はそう教えてくれた。山について語る彼は活き活きとしていた。

 彼は同時に、「君がいつかドイツに山登りに来ることがあっても、その格好(ジーンズとランニングシューズ)で来るのはやめた方がいい。」「きっと、『どこのイカれた日本人がそんな格好で来るんだ』って人から思われるよ!」と僕に冗談めかして僕の格好に釘を刺した。彼に「Crazy .」と言われたのは、昨日に続いて二回目だった。

 昨日は「この旅に出る時、家族には飛行機に乗る当日の朝、家を出る時に電話で伝えたよ。」と話した時だ。彼は「君はCrazyだ。」と言っていた。確かに、今回の旅のことを改めて考えてみると、自分でもクレイジーだと思う、自分で自分のことが可笑しくて笑えてくる。何の準備も、計画も、ゴールすらないまま飛び込んだ。ただ心の赴くままに。そして、こうして今彼と歩いている。

 「カミーノを歩いている!」その事実が信じられなかった。またこうして巡礼できる日が来るなんて、想像してもいなかった。「またいつか」という淡い希望は持ってはいたが、実際にこうして実現する日が来るなんて実際思ってもいなかった。

 僕にとっては、今踏み出している一歩一歩が夢の実現だった。一呼吸一呼吸が、今自分が夢見た場所に実際にいることの証明だった。歩き、呼吸し、見て、聞いて、感じること、その全てが夢の実現だった。そう考えると、僕はもうすでに何万回、何十万回、何百万回も夢を叶えている。叶え続けている。この先も叶え続けていくのだろう。この心の底から、魂の深みから湧き出る喜びをどう表現したら良いのだろう。夢の実現を見る喜び、望んでやまなかった瞬間を今実際に生きているという、鮮烈な感覚。

 家族への連絡のことで、二回目にマイケルから「ヒロお前はCrazyだ」と言われた後、「君は今回の旅に出る前に保険には入ってきたのかい?」と聞かれたので、「入ってないよ。」と答えると「Crazy…」と3回目のクレイジーを言われてしまった。彼はドイツで何らかの保険に入っており、もしこの度で彼に何かあっても身体はドイツに運んでもらえるらしい。

 自分でも驚くことに、その辺りから僕は、「Crazy」と言われることに安心感を覚えることに気がついた。解放感と言ってもいい。

 自分は自分だと思える感覚。”自分”を感じられる感覚。思うのは、「たまにバカなことができなくなるとまずい」ということ。きっと、”たまにクレイジーなことができなくなる”と自分を見失ってしまうと思う。だって僕らは絶対的に一人一人違うのだから。

 「優秀」とか「できる」とか「大丈夫」なんて言われ始めたら終わりだと思う。だってそれって、「他の誰かにとって、あなたを利用したい誰かにとって、あなたは都合が良い」って言われているのと同じだと思うから。

 クレイジーでいいから自分の道を歩く。後ろ指刺されようが、バカにされようが、けなされようが、正しくあろうがなかろうが、自分はこれだけは譲れない、ということをする。それがバカなことをするってことだと思う。

 そのことに関してマイケルには何も言わなかったが、しばらくしてマイケルも同じようなことを言っていた。僕が「君はカミーノを歩き始める前に何かカミーノに関する本を読んだり、映画を観たりした?」と尋ねると、

「何を用意する必要があるかとか、実際的な準備のための情報を得るために、誰かのブログを読んだりはしたけど、それぐらいかな。」と言った。そして、「だってこれは僕のカミーノであって、他の誰かのものじゃない。公式ガイドブックとかで勧められている行程とかもあるけど、なぜそれに従わなければいけないの?それっておかしいと思う。」と付け加えた。

「確かにな」と思った。誰かを目安にはしてもいいが、それはあなたのカミーノではない。マイケルは自分のペースについて「自分は1日26kmぐらいがベストだと思う。今日みたいに15kmとかは自分には短いよ。いつか僕はサンティアゴに辿り着かなきゃらないわけだし、日々しっかりと距離は稼ぎたい。」と教えてくれた。

 自分を知り、自分のペースを掴むことは長い距離を歩く上でとても大切なことだと思う。それは生き方にも通ずる、「僕は自分を見つけるために、取り戻すために旅に出たんだ。君が君自身を見つける時、そこで神を見つけることになるだろう。」彼はそう言った。

この手の廃屋を見かけるたびにマイケルは「ほら、今夜の宿があったよ。」と冗談を言うのだった。

 今回の旅に関しては、偶然が色々と重なり、物事は僕を旅する方向へと押してくれたのだが、僕の心だけが最後まで揺らいでいた。自分の暮らしの中でやらなければならないことは山ほどあった。その全てが断りづらかった。懸念事項もなかったわけでもないし、資金が潤沢にあったわけでもない。頭の中では何かが「旅に出るなんて賢明じゃない。」と囁いてきた。「今行くことに何の意味がある?」「もし行ってそこに何もなかったら?」と惑わせるようなことを言ってきた。

 最後の最後まで怖くて、ネットで航空券の購入のボタンを恐怖と戦いながら、自問自答しながら、最後は「えいや!」と迷いを断ち切るように押した。理解不能だけれど、自分の心が求めてやまないものがある時、最大の障害になるのは自分だ。自分の中の”賢くて合理的で論理的な”自分だ。

 全てを振り払い、今こうしてカミーノを歩いていて思うこと。それは「あった」ということ。全てあった。意味も、理由も、喜びも、そして運命すらも。

 カミーノに行かないほうがどうかしてたし、意味は無限にあるし、すでにマイケルという最高の友との出会いにも恵まれたし、フランスという美しい国を毎瞬間楽しんでいるし、「囁き」に惑わされたまま日常の中にいたら、そちらの方が「終わって」いたと思う。

 今回再びカミーノを歩けたことは、自分の人生を間違いなく良い方向へと導いてくれているという実感があった。

”助かった”心のどこかにそんな安堵感もあった。僕は日常に圧殺されてかけていた。それを息ができるようになって知ったのだと思う。それをそのままマイケルに話したら、彼は

「将来の計画を立てることは良いことだよ。人は計画を持って生きた方がいい。けれど、神はきっとこう言うと思うね。『オーケイ。君が計画を立てるのは自由だ。けれど、私はすでに君のために別の計画を用意しているよ』とね。」僕は笑った。確かにそうだ、と思ったからだ。

 僕はマイケルの言葉に心から納得した。なるようになるのだ。自分の計画、狭い考え方、快適な環境を捨てた時、僕らはそこにあるもう一つの計画に沿って生きることになる。未知で、冒険に満ちた、先の分からない旅に出ることになる。

 彼の手に委ねることになる。

「彼と話をする時は多くを話さないことだ。なぜなら君が語る前に神はすでにそれを知っているのだから。」またマイケルが教えてくれた。

 雪が舞い始めた。寒いというより美しい。雪の舞い落ちる中、フランスの田舎の美しい景色を眺めながら、マイケルと神とイエスと聖書について、そして人生について語り合った。なんと美しい旅なのだろう。不思議なことだ。なぜこうして僕らは巡り会ったのだろう。日本の田舎に住む僕と、ドイツの大都市に住む若者、2人が出会う可能性なんて天文学的な数字で低かったはずだ。むしろゼロだった。頭でだけ考えたらそれはきっと0だったに違いない。信じるなら、それは100%に近づいていく。ほんの一瞬でも時間がずれていたら出会うことなんてなかっただろう。

牧場と泥んこ。よく出くわすことになった。

 それにこれまでの人生のバックグラウンドがなければ、ここまで親しくもなれなかっただろう。語るべきことも、惹かれるものも、今だからこそある。何という奇跡だろう。時の歯車は複雑に、けれど正確に、良き方に噛み合い、何はともあれ、僕らは出会い語り合い、共に重いバックパックを背負い、冬のフランスで、巡礼路の少し湿った土を踏み締めて旅をしている。

 僕にとっては一歩一歩が未踏の地で、生まれて初めて踏む地面で、そばで流れ行く一瞬一瞬の景色が新しく、その全てが夢の実現だった。僕は夢の舞台にいた。そう思うと、心の底から喜びが溢れてくる。泥んこ道だって、雨だって、雪だって、風が強く吹いたって構わない。全てが素晴らしい。全てが喜びだ。そして喜びは増すばかり。だって今自分はカミーノを歩いているのだから!雨の一粒だって、雪の一片だって愛おしい。

 夢が実現するって、こんなにも幸せなことなんだ。僕は全くもって幸せだった。何度も目を閉じて、光や風や、自分の足のリズミカルな歩みを感じた。そして今、自分の心と体が感じていることを確かめるたびに、また心の底から喜びが湧き上がるのだった。


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