【サンティアゴ巡礼】フランス人の道 – 1日目 –

サンティアゴ巡礼記

『ブエン・カミーノ!~ピレネーの洗礼~』
5月6日 St.jean-pied-port → Roncesvalles 27.1kilo

 朝が来た。ようやくと言っていいかもしれない。昨夜は同室の巡礼の巨大なイビキのせいであまり眠れなかった。しかも、ようやくウトウトしてきたと思ったら、今度は隣のベッドの若者達が朝5時前からゴソゴソと支度を始める音に起こされた。

 時計とにらめっこしながら、果てしなく感じるほどに長い夜を過ごし、起床したのが6時。正直寝不足でかなり辛い。隣のベッドのイタリア人ヴィトはすでにベッドから出ていなかった。寝袋をたたみ、着替えを済ませると朝食を食べにキッチンへ行ってみた。

 キッチンにはオスピタレアが用意してくれた様々な食べ物が置かれていて、それを各自で好きなだけとって食べて良いらしい。すでに5、6人の巡礼が朝食を食べていて、その中にいたヴィトと挨拶を交わした。

 僕もトースト2枚とコーヒーをテーブルへ運ぶと、朝食を食べながら少し周りを観察してみた。巡礼達の国籍はわからない、年齢は様々、なんだか不安そうな表情を浮かべているようにも見えたし、カミーノ最初の難所であるピレネー越えを前に少し緊張した雰囲気が漂っているようにも感じた。ほとんど全員が僕と同じで、今日からカミーノを歩き始めるようだった。かくいう僕も周りから見たらとてもソワソワして見えたに違いない。

 朝食を食べ終えると、一旦寝室へ戻って荷物をまとめた。起きて準備を始めたマティアスが、僕がバックパックにJ・R・R・トールキンの『ホビット』を詰めるのを見て、『それは良い本だ!』と言ってくれた。時間がある時に読もうと思って持ってきたのだが、正直とてもかさ張るので手放すことを考えていたのだが。

 僕はマティアスのその一言で、本を手放すのを思い留まり、結局カミーノを終えるまでその本をバックパックに入れて歩いた。マティアスと互いの旅の無事を祈ると、再会を約束して先に寝室を出た。

 その後カミーノで彼にまた会うことはなかった。

 キッチンにいたヴィトと「ロンセスバジェスで会おう!」と約束しアルベルゲを出発。”ピレネー越えはとてもハードなので朝は7時頃には出発した方が良い”とのガイドブックのアドバイスに従い、歩き始めたのは7時11分。朝の空気はキリッとして冷たかったが、空に雲はなく、カミーノ初日は良い天気になりそうだった。

 アルベルゲを出ると、まだまどろみの中にあるかのようなシタデル通りを下り、ニーヴ川に架かる小さな橋をトコトコと渡り、星の数ほどの巡礼達を静かに送り出してきたのであろう”スペイン門”をくぐり抜ける。門を出てすぐはアスファルト舗装の緩やかな登り坂が続いた。

早朝、人気のないシダデル通り。
スペイン門。

 スペイン門を出てしばらく進むと、路面にホタテ貝のエンブレムが埋め込まれているのを見つけた。そのホタテ貝こそが、僕ら巡礼を聖地サンティアゴへと導いてくれる印だ。

 一人嬉しくなりホタテ貝のエンブレムを写真に収めた。巡礼路を指し示す印には、黄色い矢印やサンティアゴまでの距離が記されたモホンと呼ばれる石柱や、石や木に描かれた黄色い矢印、道に埋め込まれたエンブレムなど様々ある。フランス国内に関しては赤と白のストライプの印があちこちに描かれていた。

地面に埋め込まれたエンブレム。僕にとっての初モホン。

 一人テンションの上がっている僕を、南米系の巡礼が追い越して行った。その時彼から
ブエン・カミーノ!(よい旅を!)」
と声をかけられた。僕もとっさに
「ブ、ブエン・カミーノ!」
と応じたが、まだその挨拶に慣れておらず、ひょっとしたらただモゴモゴ言っているようにしか聞こえなかったかもしれない。

ブエン・カミーノ」とは巡礼者同士の挨拶の言葉で、互いの旅の無事を願ったり、励まし合うために使われる。国も文化も違う巡礼同士を一瞬で繋げてくれる、魔法の言葉だ。

黄色い矢印がスペイン以降でメインとなる印。赤白のストライプはフランス側で主に見かけた。

 ホタテ貝の矢印と「ブエン・カミーノ」に立て続けに出会ったことで、”今僕はカミーノを歩き始めたんだ!”という実感が湧いてきて、何だか興奮した。幸先の良いスタートを切れたようで、自然と足取りも軽くなる。

 だが足取り軽く歩けたのも最初の数キロだけだった。道の勾配は次第にきつくなり、太陽が山の向こうから顔を出す頃には徐々に気温も上がり、汗をびっしょりかきながら歩いた。「これがピレネーか…」まだ山の裾野の段階だというのに、僕は早くもピレネーに打ちのめされつつあった。

登れば登るほどに景色は壮大になっていった。

 登り続けることはきつかったが、登れば登るほどに見える景色は美しく変化していった。青い空、白い雲、遠くに連なる山々や、辺り一帯に広がる森、牧場の緑やそこでのんびりとしている動物達は見ていて飽きなかったし、気分はとても爽快だった。

 ピレネーの雄大な山肌で暮らす牛や馬や山羊達は、現代人よりよほど自由に暮らしているように見える。

草を食む羊の群れ。
羊達はモコモコとしていて可愛らしい。

 アスファルト舗装された道が砂利道に変わる辺りで、僕の前を賑やかに話しながら歩いていた二人の女性巡礼に
「どこから来たの?」
と話しかけられた。

 彼女らは50代ぐらいの陽気な韓国人で、僕が「日本!」と答えて、続けて「日本、韓国、友達!」と言うと、手でバツのサインを出された。「友達ではない!」という意味だろうか…。カミーノ以前の旅で、少なくない数の韓国人と友達になっていた僕はシュンとなった。

だらだらと長い上り坂が体力を奪っていく。

 その韓国人女性二人とは、その後追い越したり、追い越されたりと、大体同じようなペースで歩くことになった。再びアスファルトに変わった道を登ってゆくと、オリソンのカフェに到着。

 疲れ切った様子の巡礼達は砂漠にオアシスを見つけた旅人のように、喉を潤すためにカフェの店内へと吸い寄せられていった。そして多くの巡礼達にとってオアシスの泉とはすなわちビールを意味するようだった。僕は店の外の石に腰掛け、持参したバナナを食べた。そのバナナのなんと甘かったことか!ピレネー越え前半の厳しい道のりが、バナナをより甘くしてくれたようだ。

 少し休むと再びピレネーに挑み始めた。日は照り続いていたが、標高が上がるにつれて冷たい風が吹き始め、汗で濡れたままの服を着ていた僕は寒さに震え上がった。風邪をひかないためにも、こまめに衣類を着替えて体温を調整しなければならなかった。

 気づけば視界から人家が消え、緑に覆われた山々の景色と、草原でのんびり草を食べる動物達の中を歩いていた。彼らの表情も穏やかだ。僕の前後には常に何人かの巡礼が歩いていて、追い越したり、追い越される度に「ブエン・カミーノ!」と挨拶を交わし、励まし合いながら歩いた。

ピレネー越え前半。周囲には常に他の巡礼達がいた。

 カミーノ初日の今日は、国も年齢も言葉も違うたくさんの巡礼達と挨拶を交わすことになった。ほとんどの巡礼とは一期一会の出会いだったが、何人かの人達とはカミーノを通して付き合い続けることになった。

「ブエン・カミーノ」は本当に良い言葉だと思う。疲れている時には元気をもらえるし、嬉しい時には喜びを分かち合える。何よりも、その一言からたくさんの友達ができる。カミーノにはまだ魔法が残っていると誰かが言っていたが、「ブエン・カミーノ」という言葉自体がすでに魔法の言葉のようだった。

 歩き始めて数時間が経った頃、辺りの山々を一望できる開けた場所へと出た。そのちょっとした広場のゴツゴツした岩山の上には、マリア様の像が立っていた。赤子のイエスを抱きながら、道行く巡礼達を優しく見守ってくれているかのようだ。

マリア様は巡礼を優しく見守ってくれている。

 少し疲れを感じたので、マリア様が立つ岩山の裏の方へ回り、風の当たらない岩陰で一休みすることにした。汗で濡れたTシャツを着替え、ここでもバナナを食べた。やはり美味い。

 ここまで何キロぐらい歩いてきて、これから何キロ歩かねばならないのだろうか。距離感がうまく掴めないが、とにかく歩き続けるしかない。気持ちを新たに腰を上げて再び歩き出した。

 しばらくすると身体に少しずつ異変を感じ始めた。アスファルトや土の道はまだ良いのだが、砂利の道を歩くと棒のようになった足に痛み感じるようになっていた。それに加え、もう一つ耐えがたかったのは、肩に食い込むバッグパックによる痛みだ。こまめに小休止を挟み、肩と足を休めながら歩くことにした。この後、どんな道をどれほど歩くことになるのかわからない、どんな状況にも耐え得る状態でいるために、今自分の身体に起きている問題を最小限に止めておく必要があった。

 それにゆっくり歩くことで発見できることもある。草原の中をどこまでも伸びる道をトコトコ歩きながら、ふと空を見上げれば雲ひとつない青空が広がり、踏み出す一歩一歩はまるで空へと近づいていくかのようだった。道の脇には雪も残っていて、通りがかった巡礼達は珍しそうに触ったり、写真を撮ったりしていた。僕も触ってみたが、雪には泥が混じっていて少し汚かった。

道の脇に残る雪。間違っても食べないで下さい。

 周りを取り囲むように歩いていた大勢の巡礼達も、歩いているうちに次第に少なくなってきた。お互いの距離が間延びしてきているようだ。しばらくすると、登り一辺倒だった道は平坦になり、林の中へと続いていた。

 林の中を進んで行くと、目前に小さな木造の橋が現れた。橋のところで休んでいた巡礼から、その橋がフランスとスペインを分ける国境だと聞いた時は驚いた。国境と聞けば物々しい関所を想像してしまう日本人の僕にとって、巡礼路上の国境はあまりにも簡素だった。手前がフランス、一歩進めばスペイン。一歩戻ってまたフランス。橋のフランス側には『コンポステーラまで765キロ』と書かれた古い石板があり、その横にあった噴水で何人かの巡礼達が水を汲んだり、噴水の傍に腰を下ろして休んでいた。

 僕を含めて皆一様に額に汗し、若干息も上がっていた。僕も彼らにならって給水し、腰を下ろして休んだ。そこで、隣で着替えをしていたフランス人の男の人と言葉を交わした。「ブエン・カミーノ」はフランス語では「ボン・シュマ」と言うらしい。
「ボン・シュマ!」
そう言うと、彼より一足先にスペイン側へと橋を渡った。

フランスとスペインの国境。すごく簡素だ。

 フランスからスペインに入って変わったことは、それまで多かった赤と白の2本線の道標に加えて、黄色い矢印の道標が増えたことだ。国境を越えて1時間後、風に吹かれたり、泥んこの道を歩いたりしながら、ようやく頂上へと辿り着いた。登り始めて6時間が経っていた。決して早いペースではない。身体はもうクタクタでガタガタで、その場に座り込むと、しばらくの間佇んでいた。山頂に置かれたベンチには一人の女性巡礼が座っており、そこから見える山々の稜線を静かに見つめていた。彼女は何を思うののだろう、歩く理由は人それぞれだ。

頂上に到着。気分は爽快、景色は雄大。

 「さてと、」休憩を終えると、立ち上がりリュックを背負い直した。登った分だけ、今度は下らねばならない。そのことを考えるだけでゾッとするので、なるべく何も考えないようにした。僕と同じタイミングで下山を始めた巡礼達の波に乗って山を降り始めた。

 登りは体力との戦いだったが、下りは膝の痛みとの戦いだった。一歩踏み出す度に、膝の内側に刺すような鋭い痛みが走る。転ばないようにというより、膝が痛まないように歩かねばならなかった。試行錯誤の末、そろり、そろりとカニのように横向きに歩く方法が、膝に最も負担をかけない歩き方であることを発見。カニ歩きは少し恥ずかしかったが、周りを見ると、皆僕と同じように膝が痛そうで、大体僕と似たようなカニ歩きをしていた。辛いのは皆同じだと思うと、なんだか可笑しくなって、ふっと笑いがこみ上げてきた。

 石がゴロゴロ転がる道が終わると、幻想的で美しい林の中を縫うように歩いた。道のわかりづらい林の中でも、道標は常に目につきやすいところに描かれていて、辿り易いように、迷わないように、という心遣いを感じた。落ち葉と木漏れ日の道を”ザッ、ザッ、ザッ”と山を降りていく。

美しい林の道。たまに矢印を見失いそうになる。

 途中道幅が狭くなっていて、片側が急な斜面になっている場所を通りがかった時、ほんの一瞬気が緩み、そのどこまでも転がり落ちてしまいそうな斜面の方によろめいた。”アッ!”と思った時、後ろから追いついてきた巡礼が僕の腕を”ガシッ”と力強く掴み、道に引き戻してくれた。そのナイスミドルな巡礼は
「大丈夫か⁉︎」
と心配してくれた。僕は、
「ありがとう!大丈夫です!」
と答えたものの、心臓は高鳴り、気持ちは動揺していた。真剣に”もう一度気を引き締めねば”と自分に言い聞かせた。

 ナイスミドル本当にありがとう。僕もいつか誰かが道から落っこちそうになった時に、力強い腕で引き戻せるような人間になりたい。危機を救われた僕は、落ち葉の敷き詰められた林の中を、今までよりも慎重に歩き出した。

 しばらくして、前を歩いていた台湾人女性二人組に追いついた。「ブエン・カミーノ!」と挨拶をすると、
「写真を撮ってくれない?」
と頼まれた。その頼みを引き受けて、彼女らが林の中を歩いている様子を撮影すると、
「あなたの写真も撮ってあげる!」
と言われ、僕も携帯で撮ってもらった(その写真が僕がプロフィール画像に使用している写真です)。スマホで撮影してあげたり、撮影してもらったりする中で知ったことだが、海外の人達が使っているスマホはシャッター音が鳴らない。大きな”パシャッ!”という音がするのは日本人のスマホだけらしい。それで時々恥ずかしい思いをすることもあった。

 巡礼中は写真の撮り合いっこをすることが多かったが、してあげる方も、してもらう方も毎回どちらも良い気持ちになり笑顔になった。それが嬉しくて、自撮りしている巡礼達に出会うと、
「写真撮りましょうか !?」
と、やや前のめりで声をかける機会が増えていった。

静かな林道がピレネー越えの疲れも忘れさせてくれる。

 先の見えない林のトンネルはやがて終わり、木々に隠れていた青空が顔を出した。先ほどとは違う台湾人のグループと出会い、楽しく話しながら歩いていると、スペイン最初の村ロンセスバジェスに到着。

ロンセスバジェス到着。

 ピレネー越えを成し遂げた達成感にしばし浸りながら、村の入口にあったモニュメントの側で休んだ。その”倒れた人と馬”のモニュメントの意味はわからない。当分休んでいたかったが、そういう訳にもいかない。巡礼には到着してからまたひと仕事が待っている。そう、今夜眠るためのベッドを確保しなければならないのだ。

謎のモニュメント。

 時刻は13時を少し回ったところで、重い腰を上げるとアルベルゲを求めて村の中へと入っていった。幸いロンセスバジェスのアルベルゲはすぐに見つかった。何せとても大きな建物だったからだ。受付にはピレネーを越えて到着した巡礼達が20人ほど並んでいた。皆汗だくで疲れているようだった。ロビーにはリュック、ブーツ、杖が所狭しと置かれ、熱気とホコリと汗の匂いが漂っている。

 だがそこには同時に達成感や満足感、仲間意識のようなものがあり、言葉を交わさずとも目と目で互いを労い合っているような気がした。そこに居合わせた巡礼達は皆、互いをピレネー越えを共に成し遂げた戦友のように感じていたかもしれない。

 そこで気づいたことは、”僕ら人間はWi-FiやBLUETOOTHのような電波を本来兼ね備えているかもしれない”ということだ。あるいはより高度な顔認識システムを。目を見たら相手の気持ちがわかるし、見つめ合うことで思いやりや愛情を送ることもできる。

 ひとまず待合室にあったベンチに腰を下ろして一息ついた。すると、隣に座っていた小柄な女性達が偶然にも日本人だと知った。60代前半だと思われる女性二人組で、カミーノは初挑戦だということだった。とてもパワフルな二人で
「次の村ブルゲーテまでそう遠くないみたいだから、私達はそこまで歩いて行くことにするわ!ヘミングウェイが泊まったホテルもあるみたいだし!」
と信じられないことを口にした。”まだ歩くの⁉︎”ピレネー越えですっかりクタクタになっていた僕は、お二人の溌剌としたエネルギーにとても驚かされた。加えて、彼女らの
「日本の若者達はもっと旅に出るべきだわ!」
との言葉に、何だか説得力を感じた。

村はのんびりとしていて居心地が良い。

 次の村へ向け本当に出発して行った二人を見送り、受付の列に並んで順番を待っているところへヴィトが到着。彼も疲れているようだったが、僕に気づくと「ヒロ〜〜!」と陽気に声をかけてくれた。ヴィトと受付の順番を待ち、僕らの順番になると渡された用紙に名前、住所、国籍、巡礼の動機などを記入して提出。ベッドと朝夕の食事の料金合わせて24€を支払った。

 受付が済むとヴィトと共に階段で上の階へ上がり、指示されたフロアへ移動。そこには二段ベッドが二つ置かれた小さな四人部屋がズラリと並んでいた。それぞれの部屋は完全な個室というより、衝立のような壁で仕切られているだけだった。”一体このアルベルゲは何人の巡礼を収容できるのだろう?”と考えてしまうほどたくさんの部屋があった。(後に調べたところ183床あったらしい)

 今夜のルームメイトは、高齢のスペイン人男性とハンガリーはブダペストからやってきた爽やか青年ミキ、あと一人は話す機会はなかったが20代と思しき女性巡礼だった。違う部屋割りになったヴィトと、夕食を一緒に食べる約束して別れた。

 荷を解きシャワーを浴びて洗濯を済ませ、洗った服を中庭へ干し終わると、シエスタをとるために寝室へ戻った。身体は疲れ切っていた。こんな時こそシエスタが必要だ。昼寝をしようと部屋へ戻ると、ミキが
「僕はもう使い終わったから、これ貸してあげるよ!」
と、テニスボールほどの大きさの、マッサージ用ゴムボールを貸してくれた。ほぐしたい部分にそのボールを押し当てて、乗っかるように体重をかけて使うらしい。早速使ってみると、これが何とも痛気持ち良い!しばらくの間、ゴムボールを使って疲れ切った両足をマッサージした。彼の親切のおかげで、筋肉の張りをだいぶ和げることができた。
「カミーノ・デ・サンティアゴは”力の道”だと言われているんだ。どんどん力が漲ってくる気がするよ!」
そう言うミキは、ベッドでグッタリしている僕とは対照的に、ピレネー越えの直後とは思えないほどエネルギーに満ち溢れていた。彼が部屋を出て行き一人になると、僕は電池が切れたかのようにプツリと意識が途切れ、一瞬で深い眠りに落ちた。

ローランが聖なる剣デュランダルで真っ二つに切った(と言われる)岩。

 ヴィトとの夕食の約束の時間が近づいてきたので、のろのろと起きて支度をした。夕食会場になっている村のレストランへ行こうとしたところ、ミキがドイツ人の女の子ララと一緒にやってきて夕食に誘ってくれた。しかし、ヴィトとの約束があったので、
「友達探してくるから先に行ってて!」
とミキに伝えてヴィトを呼びに行くことにした。だが彼は部屋におらず、どこを探しても見つからない。

 諦めてレストランへ行くと、ヴィトは他の人達と上機嫌でご飯を食べていた。少しショックだったが、「ヒロ〜〜!」と陽気に声をかけてくる彼はどこか憎めない人だった。そのグループに加わるのは何だか気が引けたので、ミキとララが座るテーブルへ向かった。

 彼らのテーブルには二人の他にもう一人フランス人のおじさんが座っていた。僕を含め4人ともメニューペレグリノ(巡礼者用の定食メニュー)を注文すると、早速お互いについてあれこれ話し始めた。自分の語学力の無さが故に、うまく聞けないこと、伝えられないこともたくさんあったが、もっと知りたい、より伝えたい、という気持ちの方が勝り、下手でもとにかく尋ねたり話したりした。そうしていると恥ずかしさはなくなり、楽しい時間を過ごすことができた。

 食事中に不思議なことがあった。僕らのテーブルを給仕してくれた男性のウエイターの行動に関してだ。彼はとても忙しそうで、僕らが食べている最中の皿を突然取り上げたり、フランス人巡礼がフライドポテトのお代わりを注文すると、他の人の食べ残しを出してきたり、食器は基本投げるように渡された。よくよく考えれば、店の中は巡礼でとても混んでいて、少ないスタッフで捌くには無理があるようにも思えた。(住民30人ほどの村に年間数十万人の巡礼達がやってくるのだ)

 そしてしまいには、
「次の巡礼達が夕食を待ってる。」
と言われ、全て食べ終える前に追い出された。確かにレストランの入口には夕食を待つ巡礼達が列をなしていたし、それは別に怒るようなことではなかったけれど、何だか奇妙だった。というのも彼に似た登場人物がパウロ・コエーリョの自伝的小説『星の巡礼』にも登場したのを思い出したからだ。ララも部屋への帰り道、しきりに「何だか変だったね。」と言っていた。

 これは何かの予兆なのか。それとも、年間35万人が歩くという空前のカミーノブームが作り出した歪みであり、彼はその犠牲者なのだろうか。彼に一言感謝を伝えれば良かったと少し後悔しながら寝室へと戻った。

本日のアルベルゲ

Refugio de Peregrinos de Roncesvalles (情報は2023年2月時点のものです)

  +34 948 760 000
  https://alberguederoncesvalles.com

⚪︎宿泊料金(一泊)
 ・14€(素泊まり)
 ・26€(ベッド+夕食)
 ・19€(ベッド+朝食)
 ・31€(ベッド+夕食+朝食)
⚪︎主な設備
 ・ベッド 183床
 ・シャワー 10室
 ・洗濯機
 ・キッチン
⚪︎営業時間
 ・13時〜22時(押印は10時〜)

本日の支出(1€=125円)

・宿代(夕食、朝食込み) 24€(3,000円)
 合計 24€(3,000円)

最新のカミーノ情報について

日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会
https://camino-de-santiago.jp/

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