『僕のサンティアゴ〜最後の晩餐〜』
6月11日 Ribadiso da Baixo → Santiago de Compostela 41km
もしイタリアの友人達が今日帰国するのであれば、最後に彼らに会うため今日はサンティアゴまで歩くと決めていた。
6時30分に目覚めると、すぐに支度をしてアルベルゲの隣のバルへ移動。Wi-Fiに接続して彼らからメッセージが届いていないか確認したが、返事はまだ来ていなかった。
「もう行くしかない。今日会うか、それともこの先ずっと会えないか、そのどちらかだ」
そう覚悟を決めると、コーヒーとパンでささっと朝食を済ませ、すぐにRibadiso da Baixoを出発した。
身体は重たいし鼻水はズルズル出るし、体調は思わしくなかった。カミーノ中盤で崩れた体調は悪くなる一方だった。だがそんなことを言っている場合ではない、とにかく休まずに歩き続けた。頭の中ではサンティアゴに辿り着くことだけを考えていた。
村にもバルにも寄らず、食事もせずにひたすら前に進む。「また彼らに会いたい」心の中にはあるのはその想いだけだった。
「ああ、自分にとって『人』というものは、これほどまでに大切なものだったんだ」
そう気づかされた。
「心のつながりとはこれほどまでに強いものなのか」
そう思い知らされた。
サンティアゴは果たしてゴールなのだろうか?それはそうなのだろう。そこで何かしらの区切りがつくのか?きっとそうに違いない。
だが今の自分は、サンティアゴがサンティアゴだからサンティアゴへ向かっているのではなく、そこに大切な友人達がいるからサンティアゴへ向かっていた。今の僕にとって、サンティアゴとは心の中にいる友人達だった。
「どこか遠くへ行きたい。」人々から離れるようにして巡礼を始めた僕は、最後には人を求めて歩いていた。
これまでの人生の中で、そのようなことなど一度も考えたことがなかった。正直に言って、僕にとって”人付き合い”はいつだって煩わしいものでしかなかった。
僕はとても自己中心的な人間だし、エゴイスティックに生きてきたと思う。そのせいで数えきれないほど失敗して、その度に後悔して、多くの人を傷つけ、自分の人生を駄目にしてきた。
僕は心のどこかで、そんな自分の人生に絶望と虚しさを感じていた。その一方で救いを求めていたののだと思う。カミーノ・デ・サンティアゴは、迷走と落下を続ける僕の人生の前に、突如何の前触れもなく現れた。
カミーノの存在を知ってからというもの、カミーノのことを考えている時間だけは希望を持って生きていられた。
「いつか絶対にカミーノを歩く」
その気持ちだけが、僕の人生を照らし、温めてくれる、ただ唯一の光だった。
ただ唯一の救いだと信じて生きてきた。
大げさかもしれないが事実だ。
今日は暑いぐらい天気が良かった。それに今日はたくさんの巡礼達と一緒に歩くことになった。どこから歩き始めた人も、辿り着くところは一つ、サンティアゴ・デ ・コンポステーラだ。なので、ゴールが近くなれば必然的に歩く巡礼も増えてくる。それはまるで多くの支流が合流して大きな大河となるような感じだった。
宗教も似たようなものかもしれない。どの宗教を信仰して、どこからスタートした人も、どのルートを選んだ人も、矢印に従い、正しい道に沿って歩いていけば、最後にはただ一本の大きな道を歩くことになる。
「韓国のオンニ達にも会えないかな」と期待しながら歩いていたのだが、結局彼女らを見つけることはできなかった。
巡礼達がひしめき合うように歩いていたのも朝だけで、午後からはその数が激減した。おそらく多くの巡礼達が明朝のサンティアゴ入りを考えていて、すでに道中のアルベルゲにベッドを確保しているのだと思う。
昼からもほとんど休まずに歩き続けた。だが不思議とそこまで疲れは感じなかった。”自分のペースで歩けば疲れない”これはカミーノが教えてくれたことだ。タイムリミットはある、だからこそのんびりと行こうと決めた。
最初に気負いすぎると、自分が本当に射止めたい目標に到達できない。僕の大好きな童話ミヒャエル・エンデの『モモ』の話の中で、謎のカメ”カシオペイア”が同じようなことを言っていた。
『オソイホドハヤイ』
カミーノを800kmほど歩いてきて、それは真実のように思えた。
サンティアゴに近づくにつれて巡礼の数は減り続け、前を見ても、後ろを振り返っても誰もおらず、一人ぼっちで歩く時間が長くなっていった。けれどそこに寂しさはなく、逆に静かに歩けることが心地良かった。空腹も感じないではなかったが、「食べたら足が止まる」そんな気がして食べなかった。
進めば進むほど道端のモホンも古くなっていった。歴史を感じさせるそれらのモホンは置き換えられることもなく昔からそこにあるようだ。巡礼路を歩いていると、サンティアゴ到着を目前に控えた巡礼達の心境が、巡礼路沿いのあちこちの壁に描かれているのを見かけた。その中でも
『IT’S THE BEGINING NOT THE ENDING (これは終わりではなく、始まりだ)』
という言葉がとても印象に残った。まだサンティアゴ到着後の気持ちは全然想像できないが、僕もそういう風に思うのだろうか。
スペイン語で『歓喜の丘』を意味するモンテ・ド・ゴソが今にも現れるのではないかと期待しながら、いくつもの小さな村を通り抜けた。モンテ・ド・ゴソは、巡礼達が長い旅路の果てについにサンティアゴの大聖堂を目にし歓声を上げた、と言われる丘だ。
歩いている途中、道端に座り込む女の子を見かけた。彼女は立ち上がって歩き出したが、何だか疲れた様子でふらふらしていた。
「大丈夫?」
と尋ねてみたら、
「大丈夫!」
彼女はそう答えるとどんどん先へと歩いていった。彼女にも何か内に秘めた特別な思いがあり、今日サンティアゴに到着しなければならないのかもしれない。
またしばらく歩いていくと、怪我をしているのか、足を引きずりながら歩くおばあちゃん巡礼に会った。彼女にも声をかけたら
「大丈夫!」
と力強い返事が返ってきた。皆それぞれが決意を胸に歩いている。僕もそんな彼女らに励まされるように歩き続けた。
静かな森の中を通り抜け、テレビ局にキャンプ場、空港の滑走路の横を通って進んでいく。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
モンテ・ド・ゴソ『歓喜の丘』に到着。そこには巨大なモニュメントが建てられており、そこから見下ろすようにしてサンティアゴ・デ ・コンポステーラの街、それに大聖堂が見えた。
「やっと辿り着いたんだ!」
口には出さず、心の中で歓声を上げた。草の上に荷を投げ出すと、胸一杯に息を吸い込みサンティアゴの街とその中心から突き出るようにそびえ立つ大聖堂をしばし眺めた。
丘の上には気持ちの良い風が吹いていた。そこにはたくさんの巡礼達がいて、サンティアゴの街と大聖堂を感慨深そうな表情で眺めていた。彼らの中には、サンティアゴ到着の喜びと旅の終わりの寂しさが半分ずつあるようだった。しばらく歓喜に浸ると、丘から街へと下る道を歩き出した。ここはまだ今日のゴールではない。
時刻は17時になろうとしていた。「どうにか間に合ってくれ!」と願いながら、転がるように道を下りサンティアゴの市街地へと向かう。今日の自分はまるで”走れメロス”のようだった。ゴールがすぐそこに見えているからか、足取りは軽くサンティアゴへの道を転がるように歩いた。
辿り着いたサンティアゴ・デ ・コンポステーラの街は想像以上に都会だった。「41km歩き切ったんだ!という達成感と、「無事に辿り着けた」という安堵感を感じながら、大聖堂を目指して街中を進んだ。
道端でばったりイタリアの友人達と会えるかもしれないと思い、キョロキョロ周りを見ながら歩いたが彼らの姿を見つけることはできなかった。街の雰囲気も想像していたものとは違うことに気づいた。ここがカミーノ・デ・サンティアゴの終着点だとは思えないほど、街の人々は巡礼に対して無関心で素っ気ないように感じた。
それもそのはず、後にハビエルから聞いた話によると、サンティアゴの街には1日に1,400人ほどの巡礼が到着するらしい。ピーク時にはもっと増えるというのだから、街がどれほどの巡礼で溢れるのか想像もつかない。毎日巡礼一人一人にゴールテープを張ってあげる必要もないし、地元の人にはその人達の生活があり人生があるのだ。
市街地に入ってから大聖堂までは結構な距離があり、どの都市でもそうであったように迷いそうになることもあった。だが大聖堂が近づくにつれて街の雰囲気も段々と変わっていった。ようやく”巡礼の聖地サンティアゴ”といった雰囲気が漂い始める。
すでに巡礼事務所で巡礼証明書をもらった巡礼達とすれ違った。皆笑顔でその表情には達成感や喜びが溢れていた。
大聖堂に向かう途中、巡礼中に何度か見かけたことのある韓国人の女の子が、バス停でバスを待っているのを見かけた。これから空港に向かうらしく、小綺麗な服装をしていて傍にはスーツケースを引いていた。彼女はもはや汗や埃にまみれてもいなければ、重たそうなバックパックも背負っていなかった。
その時の彼女の、清々しく晴れやかな表情がとても印象的だった。彼女はとても良い旅をして、素晴らしい友と出会い、目的の場所へと辿り着いた。そして今まさに新たな旅へと歩み出そうとしているようだった。
彼女の眩しい横顔と希望にキラキラと輝く目が忘れられない。
迷いながらもなんとか旧市街に辿り着くと、そこは多くの巡礼達で賑わっていた。土産物屋やバルが軒を連ね、街角では大道芸人がその芸で道行く人達を惹きつけていた。そして路上で演奏されるバグパイプの中世風の音楽が鳴り響く中、ついに大聖堂へ到着。
大聖堂前のオブラドイロ広場は、サンティアゴ到着を喜び合う大勢の巡礼達で溢れ返っていた。目の前には巨大な大聖堂、これまで何度も大聖堂の写真を眺めては恋い焦がれてきた。そして今目の前に本物の大聖堂があることが夢のようだった。
巡礼達は仲間と共に歓喜し、抱き合い、涙していた。中にはその場に座り込んでじっと大聖堂を見つめている者、広場に仰向けに寝転がって空を仰ぎ見る者もいた。
一人一人が、それぞれの理由を携えてここまで長い旅路を歩いてきた。ある人にとっては約束だったかもしれない、ある人にとっては信仰のため、またある人にとっては魂の救済を求めての巡礼だったかもしれない、。
僕にとってはその”理由”自体を探しにやってきた。皆歩く理由はそれぞれあるが、そんな僕らをカミーノはここまで導いてくれた。
僕も背負っていたバックパックを下ろすと、広場に座り込んで大聖堂と祝福し合う巡礼達を眺めた。それはとても幸せな光景だった。僕ら巡礼は、国や文化や言葉を超えて共通の目的地を目指し、寝食を共にしてきた。一つの夢に向かって歩き続けてきた。
そして今、その達成の喜びは一つとなり、広場は互いへの祝福の気持ちで溢れていた。僕らはカミーノで一つになったのかもしれないし、もともと一つだったと言えるような気もする。人は生まれながらにして、心の中に一つなる文化を持っているような気がしてならない。
ゴールは確かに感動的だったが、僕の目に涙は浮かばず、「さあ、友人達を探さねば」と腰を上げて歩き出した。僕のゴールは友人達だったからだ。だがふと目の前を見ると、そこにパスクワーレがいた。
彼も同時に僕を見つけた。そして僕らは互いに歓声を上げると、歩み寄りガシッ!と抱き合った。その瞬間心の底から込み上げてくるものがあり、僕は号泣していた。
僕の心は、僕のサンティアゴはそこにあった。この絶妙なタイミングに、無事に友のもとへと導いてくれたカミーノに僕は深く感謝した。「これ以上のドラマはない」と本気で思った。
ひとしきり喜びを分かち合うと、彼は隣にいた彼の友人達を紹介してくれた。その二人の友人の内の一人は、カミーノを歩き始めの頃、僕が台湾の母と慕うスプリングを通じて知り合っていたマイケルというカメラマンだった。(だが彼は僕のことを覚えていなかった)
ミルコ、ヤコボ、カーラがすでに帰国してしまったことを知って悲しくなったが、パスクワーレと再会できただけでも幸運だったと思う。なぜなら、彼はこの後バスに乗り空港へと向かう予定だったのだ。
パスクワーレとマイケルと大聖堂の前で記念撮影をすると、パスクワーレが、
「今夜出発前に一緒に夕食を食べないか?」
と誘ってくれた。僕は喜んでその誘いを受けると、その場は一旦別れた。
僕はまず今夜の宿を探さないといけなかったし、彼らは荷物のこともあり一度ホテルに戻らなければならなかった。宿のこともそうだが、到着の喜びそのままに巡礼証明書も発行してもらいたかったので、まずは大聖堂の近くの巡礼事務所へと行ってみた。
巡礼事務所に到着してみると、証明書発行の受付には巡礼達の長蛇の列ができていた。スタッフのおじさんは
「これでも人が少ない方だよ!今がチャンスだ!」
と親切にも教えてくれたのだが、あまり遅くなると宿が確保できるか心配だったので、証明書は明日もらうことにして、アルベルゲを探すため新市街地の方へと歩き出した。
歩き出すととても空腹を感じた。それもそのはず、今朝7時頃にパンとコーヒーの朝食を食べてから、10時間半何も食べずに41km歩き続けたのだ。いい加減何か食べなければと思い、通りがかった小さなパン屋でナポリタナとボガディージョ用のパンとチーズを買い、小さな教会の前のベンチに座って食べた。
そこで食べたボガディージョは、もう言葉にならないほど美味しかった。僕にとってボガディージョとナポリタナがどれほど美味しく感じるかは、その日どれだけ充実した1日を過ごしたかのバロメーターになる(と勝手に思っている)のだが、今日という日は疑いの余地なくカミーノで最も充実した1日だったようだ。
お腹も落ち着くと早速アルベルゲを探して歩いた。一軒目に尋ねたアルベルゲPort Realは満室だと断られた。立地が良いし、建物自体も素敵なアルベルゲだったので人気なのもうなずける。
いよいよ不安が募ってきた僕に、Port Realのオスピタレオが、彼の知っているアルベルゲを勧めてくれた。そのうえエコバッグまでくれた。彼の親切に感謝して、教えてもらったアルベルゲを目指して再び歩き始めた。
サンティアゴの街中の移動も含めたら、今日はフルマラソン以上の距離を歩いていると思う。そうしてドキドキしながら訪れた二軒目のアルベルゲで僕は無事にベッドを確保することができた。緊張しっぱなしの1日だったが、そこでようやく安堵してホッと胸をなで下ろした。
アルベルゲMonterreyはとても快適な宿だった。荷を下ろしてWi-Fiに接続すると、日本の家族と友人からメッセージが届いていた。何だか祝福されているようで嬉しい気持ちになり、彼らに無事にサンティアゴに到着したことを伝えた。パスクワーレからも連絡がきていて、ガリシア広場近くのKFC(ケンタッキー)で夕食を食べることになった。
その時には意識も半分もうろうとしていて、シャワーを浴びたのかどうかも覚えていない。ゆっくりする間もなくアルベルゲを出て、ガリシア広場を目指して再び旧市街の方へと向かった。
だが集合場所であるガリシア広場をなかなか見つけられず、最後はパトロール中のお巡りさんに場所を尋ねて、ようやく辿り着くことができた。グーグルも便利だがやはり最後に頼りになるのはやっぱり『人』だ。それもカミーノが教えてくれたことだった。
KFCに入るとパスクワーレ達がいて、すでに夕食を食べ終えた様子だった。自分は遅くなるので、先に食べていて欲しいと事前に伝えていた。彼らには出発のバスの時間も迫ってきていたからだ。だがパスクワーレは僕の到着まで食べるのを待っていてくれたらしく、一緒に夕食を食べてくれた。泣かせてくれる。
僕の身体はもう限界を超えていて、もはや壊れかけているように感じた。食べ始めたハンバーガーを吐きそうな状態だったが何とか我慢した。パスクワーレ達と食べる夕食はとても楽しかった。パスクワーレとマイケルはとても冗談が好きで、とにかく皆で笑い転げた。そして楽しい時間はあっという間に過ぎた。最後にお互いのクレデンシャルにメッセージを書き込むと、感極まり彼らと何度もハグをした。
バス停は店を出てすぐのところにあった。僕らがバス停に着くや否や、バスが彼らを迎えにやってきた。彼らがバスに乗り込む前に、最後のハグをした。その際にマイケルが、
「フィステーラに辿り着いた時、君は自分がどの道を歩くのかを決めなければならない。決めることになるだろう。」
と意味深なことをささやいた。
別れ際パスクワーレに、彼に渡そうと思って身に付けていたテンプル騎士団の赤い十字架のネックレスを渡した。帰国後に控えている彼の膝の手術の成功と、何より彼のこれからの人生が幸福でありますようにとの願いを込めて。
バスが彼らを連れ去ってしまうのを、バスが街角に消えるまで見届けた。彼らの最後の姿、その時のパスクワーレの寂しそうな表情、その一瞬のような永遠のような瞬間が今も忘れられない。
その後のことはあまり覚えていない。気づけばアルベルゲに戻っていて、ベッドに突っ伏して泥のような眠りに落ちていた。
本日のアルベルゲ
Albergue Monterrey(Santiago de Compostela)
Tel : (+34) 655 484 299 / (+34) 881 125 093
Email : alberguemonterrey@gmail.com
私営アルベルゲ
3月15日〜11月15日 9時〜20時
予約可
・宿代 14〜18€(時期と滞在期間によって変わります)
・ベッド数 36
・ダイニングルーム(電子レンジ2、コーヒーマシン、ケトルその他有り)
・冷蔵庫 2
・シャワー室 4(タオル有)
・お湯
・洗濯場
・物干し綱
・洗濯機(洗濯8€、乾燥8€、5kgまで可能)
・鍵付きロッカー
・コンセント
・薬箱
・Wi-Fi
・公衆電話
・駐輪場
本日の支出
項目 | € |
ナポリタナ、コーヒー | 4 |
パン、チーズ、ナポリタナ | 2.8 |
宿代 | 13 |
ケンタッキー | 6 |
合計 | 25.8 |
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