最近は生活がルーティン化してきて、日々感じることが減ってきている気がする。人の脳には、どんな状況でも数日でそれを日常にしてしまう機能がついているらしい。
僕は人生で初めてアイルランドという国に来て、言葉も文化も日本とは全く違う国で、語学学校という今まで通ったことのない場所へ、数日前に知り合ったばかりのホストファミリーの家から登校している。
毎日朝から晩まで緊張しっぱなしも大変だけれど、新鮮さを感じるセンサーが鈍くなり始めていることには危機感と勿体なさを感じる。
ただ学校は毎日新鮮で刺激的だった。授業では、文法や単語を学びながら、実際にそれらを使って皆で討論する。黙ることは負けであり、嘲笑の的になる。常にどのような話題に対しても自分なりの意見を持ち、それを自信を持って表現することが求められた。
僕らの担任の先生は油断していそうな生徒を探すのが得意で、いつも僕は不意を突かれて意見を求められた。そして上手く答えられず、モゴモゴ言って皆に笑われたり、呆れられたりしていた。僕の失態は語学力というより「物事に対して意見を持っているかどうか」によるところが大きい気がする。
僕よりかなり若い子たちが自分の意見を持ち、堂々と主張することに感心してしまう。語彙力は変わらない、ただ「自分の頭で考えて生きてきた経験値」の違いをすごく感じた。
語学学校には世界中から学生達が集まってきていた。どのクラスも国際色が豊かだ。僕のクラスにはイタリア人、スペイン人、ブラジル人、トルコ人、フランス人、ベルギー人、ロシア人、香港人、そして僕の他にもう1人日本人がいた。
授業の取り組み方にも、それぞれの国の国民性が出る。どの子も個性があって面白かったし、彼らから学ぶことも多かった。それぞれ違うということは楽しいことなのだと思う。
イタリア人のアグレッシブさ、フランス人の熱っぽく語る感じ、ブラジル人のポジティブシンキング。日本人は、他の国と比べてシャイだが、実直というか真面目で勤勉だ。国民性は違うが、皆すごく良い人達だった。僕は今回クラスメイトに恵まれたと思う。
クラスメイトと討論するとき、文化の違いをより感じた。皆自分の意見を持っているし、わからないことは納得するまで議論する。そして、議論することを恐れない。先生にさえ食ってかかる。
議論、討論、主義、主張。これまで経験したことのない授業形態に戸惑うことが多かった。だが、「安全圏の外で冷や汗をかきながら恥ずかしい思いをする」それなくして成長はない気がする。チャレンジしなかった時間は記憶に残らないし、記憶に残らない時間は積み上げられない。感情というペンでしか強い記憶は書き記せないのだと思う。せっかく遠い国まで来て、チャレンジしないのはすごく勿体無い。
僕らは授業の間の休み時間に卓球をして遊ぶことがあった。学校が用意してくれている卓球部屋では、いつも誰かが卓球をしていた。今日初めてクラスメイト達と卓球をして遊んだ。
授業での真剣な雰囲気とは違い、皆笑ったり、はしゃいだりと楽しそうだ。そして皆上手い!イタリアもスペインもブラジルも球技が盛んだからかもしれない。でもさすがというか、楽しみながらも勝負へのこだわりは強かった。
今日から、午前のクラスに加えて午後のクラスも取ることにした。僕が学校に通える期間は1ヶ月だけなので、その限られた時間でよりレベルアップするためだ。
午後のクラスは、担任の先生ではなく、おっとりとした女性の先生だった。僕がアイルランドで会いたいと思っていたおばあちゃん像そのものだった(なぜ僕がアイルランドで現地のおばあちゃんに会いたかったのかはわからない)。彼女はとても知的で、洞察力に富んでいた。彼女が話をするときは、皆静かになり、話に聴き入ってしまう。とても不思議な人だった。
午後の授業を終えると、勉強の心地良い疲れを感じながら帰宅した。勉強して心地良くなるなんて、生まれて初めてだと思う。ダブリンでの1日がこうしてまた過ぎていった。

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