「聖ヤコブとはどんな人物だったの?」
サンティアゴ巡礼のそもそもの目的、それは聖ヤコブの眠るサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を訪ね、ヤコブのお墓に参詣すること。
では、聖ヤコブとはどういう人物だったのか?
キリスト教のバックグラウンドがなければ、なかなか馴染みがないかもしれません。僕もそのうちの一人でした。
僕は知識ほぼゼロでカミーノを歩いてしまいましたが、少しでも聖ヤコブやキリスト教について知っていれば巡礼もより充実したものになったかもしれません。
なので今回は聖ヤコブその人について詳しく掘り下げていきたいと思います。
聖ヤコブとは?
略歴
ガリラヤ(現在のイスラエル北部の地域とヨルダンの一部)の漁師の家に生まれる。
父はゼベダイ、使徒ヨハネを兄弟に持つ。家は使用人を雇えるほど裕福だったようです。
新約聖書の中だけでも4人のヤコブが登場するので他と区別するため、「大ヤコブ」あるいは「ゼベダイの子ヤコブ」とも呼ばれています。
イエスの弟子となったきっかけは、父ゼベダイと兄弟のヨハネと共にガリラヤ湖の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、そのまま弟子入りしました。
「21:そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟のヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、船の中で網の手入れをしているのをご覧になると、彼らをお呼びになった。22:この二人もすぐに、船と父親とを残してイエスに従った。」
(マタイによるよる福音書 4章21〜22節)
ちなみにイエスは、ヤコブとヨハネを弟子として迎える直前にすぐそばでペトロとその兄弟であるアンデレを弟子にしています。二人も同じガリラヤの出身で職業も漁師でした。
考えてみたら、通りがかったイエスに一言声をかけられただけで、全てを捨てて弟子入りするってどいういう心境だったのでしょうか。それだけイエスのカリスマ性が凄まじかったのでしょうか。
弟子入り後のヤコブは、十二使徒の一人としてイエスに最も近い存在として活動します。
イエスの死後はキリスト教の布教に尽力し、初期のエルサレム教会において中心的な立場を担っていました。
宣教活動からエルサレムに戻ったヤコブでしたが、44年頃、キリスト教迫害の勢力が力を増しつつあったエルサレムで、時の権力者ユダヤ王ヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ斬首されます。
「1:そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに迫害の手をのばし、2:ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。3:そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。」
(使徒行伝 12章1〜3節)
そうして十二使徒中最初の殉教者となりました。
人となり
気性が激しい
兄弟の使徒ヨハネと共に、イエスから「ボアネルゲス(雷の子ら)」と呼ばれるほどに気性が激しかったヤコブですが、同時に純粋でもありイエスに対しては一途な敬愛の心を持っていたようです。
「またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲスすなわち、雷の子らという名をつけられた。」
(マルコによる福音書 3章17節)
大ヤコブが「雷の子」と言われる所以はもう1つあり、それは彼の説教する声がとても大きかったからだと言われています。その凄まじさは
「悪人どもをふるいあがらせ、怠惰な人びとを目覚めさせ、その深遠さにだれもが賛嘆しないではおられなかった」
(ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」)
ほどだったと言われています。
「ボアネルゲス」には当時ヘブライ語で「神の声」という意味もありました。
短気だった
ヤコブは短気であり野心家でもあったようです。
イエス一行がある村に到着した際は、彼らを歓迎しようとしない村人達に憤慨し、「天から火を呼び出して村を焼き尽くしましょう!」と過激なことを言ってイエスに怒られたりしています。
野心家だった
あるときヤコブと兄弟のヨハネがイエスに尋ねます。
「35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどものひとりをあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」」
(マルコによる福音書10章 35〜37節)
つまり他の10人の弟子を差し置いて、彼らだけ側近としてイエスの栄光にあやかりたいと願ったのです。
この後二人はイエスに叱られましたし、ほかの弟子達も彼らに対して怒りました。
イエスにとって特別な弟子の一人だった
そんなヤコブですが、ペトロとヨハネと共に、イエスの生涯の重要な場面で同行を許された3人の特別な弟子の一人でした。
【ヤイロの娘の蘇生に立ち会う】
イエスが会堂長ヤイロの死んだ娘を生き返らせる奇跡を行った際、ペトロとヨハネと共に立ち会うことを許されました。
「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブそれに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。」
(ルカによる福音書 8章51節)
【ゲッセマネの祈り(オリーブ山の祈り)】
最後の晩餐の後イエスがオリーブ山のゲッセマネの園で神に祈りを捧げる際にペトロとヨハネと共に同行。
「そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、」
(マルコによる福音書 14章33節)
【主イエスの変容】
「1:六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟のヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3:すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。」
(マタイによる福音書 17章1〜3節)
イエスの死後は、殉教されるまでユダヤ、サマリア、スペインなどで6年間にわたる伝道活動をします。
ですが、スペインでの宣教は決して成功とは言えず、本人も悩んでいたようです。弟子にできたのも7〜9人ほどだと言われています。
大ヤコブの死後
キリスト教の迫害勢力が力を増しておりヤコブの亡骸をエルサレムに埋葬することは困難だった。そのためユダヤ人を恐れた弟子達は、人知れずヤコブの亡骸を石の船に積み地中海へと出港しました。
行き先は神の手に委ね、風と海流に運ばれるがままに航行。7日後にはスペインのガリシア地方に漂着しました。
漂着したのはパドロンという町で、聖ヤコブを乗せた船が横付けした石が、今でもパドロンのサンティアゴ教会に祀られているらしいです。
色々ありながらも無事にヤコブの亡骸はスペインの地に埋葬されました。これで一件落着かと思えましたが、動乱の時代を迎えたスペインで時と共にヤコブの墓の存在は忘れさられてしまいました。
時は流れ813年、ある夜のこと夜空に星が現れその星が地上に一条の光を投げかけます。ガリシア地方の野原の上にです。
それを偶然見かけた羊飼いが、星の光が差す方へ導かれるように近づいていくと、洞窟の中に墓を発見。それが聖ヤコブのお墓に違いないということになりました。(発見の日が7月25日だったことから、その日が聖ヤコブの日に定められたといわれています)
その知らせはすぐに広まり、国王アルフォンソ二世がその聖ヤコブのお墓の上に建てたものが現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂だというわけです。
聖ヤコブの墓が発見された当時のスペインは、サラセン人との戦の真っ只中でした。戦場にいる兵士たちにヤコブの墓発見の知らせが届くと「聖ヤコブと母国のために勝利するぞ!」と士気は一気に高まり、それにより戦に勝利することができたといわれています。
その出来事から聖ヤコブはスペインの守護聖人であり、戦の守護聖人になっていきます。
最後に
以上が聖ヤコブについてまとめた内容になります。
・気性が激しく、短期で野心家だった
・イエスには重宝された弟子の1人だった
・スペインでの宣教も成功とは言えず、最後は非業の死を遂げる
聖人というとどこか遠くかけ離れた存在に感じてしまいますが、人となりを知るとだんだん身近に感じられて親近感が湧いてきますよね。
聖書を読むのは苦手な僕ですが、イエスと弟子達の物語についてのドラマシリーズにはまっています。興味がある方はぜひご覧ください。日本語字幕もあります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ブエン・カミーノ!
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