『決断〜ラストチャンス〜』
6月10日 Casanova Mato → Ribadiso da Baixo 20.6km
6時17分に起床すると、7時には朝靄のかかるカサノバ・マトの村を出た。早いもので、気づけばサンティアゴはもうすぐそこだ、数日以内には到着することになるだろう。
そう考えるとなんだか寂しい気持ちになった。
今朝もなるべく立ち止まらずに歩き続けた。ここ最近なぜだかわからないが、とにかく前に進みたい気持ちが強くて、村へ立ち寄ってのんびり過ごすこともめっきり減っていた。まるで”今はひたすら歩き続けなさい”と誰かにささやかれ続けているような感じだった。
しばらく歩いてお腹が空いてきたので朝食休憩を入れることにした。立ち寄ったのは、真新しく見えるアルベルゲに併設された、リゾートホテルのバーのような洒落たバルだった。店内にはきちっと制服を着たバーテンダーのような女性がカウンターの中で働いていた。
僕の朝食の定番であるコーヒーとナポリタナを注文して席に着く。バルには巡礼が二人いるだけで、静かな店の雰囲気が、先を急ぎたがる僕の気持ちを落ち着かせてくれた。
僕はカミーノはもとより、日本でもほぼ毎日コーヒーを飲んでいた。色んなお店の色んなコーヒーを何杯も飲んできたが、ここのコーヒーはその中でも飛び抜けて美味しかった。
甘くてコクのあるコーヒーからは、思わず顔がほころんでしまうような幸せな香りがする。すぐに飲んでしまうのが勿体ないくらいだった。近所にこの店があれば足しげく通うことになるだろうが、カミーノではコーヒーとの出会いも一期一会、おそらく再びここを訪れることはないだろう。
朝食を食べ終えると、後ろ髪を引かれながらも、会計をして店を出ることにした。そこでさらに驚いのは、僕が飲んだコーヒーは1杯1€(125円)だったことだ(これまでカミーノで飲んだコーヒーは大体1.2〜1.6€だった)。
どこよりも美味しいコーヒーを、どこよりも安く提供している。一体全体どうなっているんだ。
「高いものは良いもの」「安いものはそれなりの価値しかない」そんな僕の考え方の外側にそのコーヒーはあった。
すっかり価値観を揺さぶられた僕は、一杯のコーヒーが語りかけてきたことについてしばらく歩きながら考えた。
良い物を良心的な値段で提供する。派手な宣伝など一切なくて、ただ物静かな女性店員が慣れた様子でコーヒーを淹れて、何も言わずにそっとテーブルに置いていく。
正直な取引、心の通った取引、世の中を幸せにする取引が、ここで日々淡々と行われているのだ。それってすごいことだと僕は思う。
通勤途中らしい地元の人が店に立ち寄り、コーヒーを注文して朝の会話を始める。そしてそれが日々繰り返される。これはもう商売ではなく、茶道に通じるような一種の宗教的行為のような気がする。ベロラードのバルのおばちゃんの笑顔を思い出した。
メリデの町の入口には石造りの可愛い橋が架かっていた。「静かな雰囲気の町だな」と思っていたら、そこはメリデではなく違う村だったようで、さらにしばらく歩くと今度こそメリデに到着した。
メリデではガリシア名物であるタコ料理”プルポ・ア・ラ・フェイラ”が食べられるとガイドブックには書かれていた。そう書かれているだけあって、町中を歩いていると道沿いのタコ料理屋では大鍋でタコを茹でていた。
とあるタコ料理屋の前を通ると、店員のお兄さんが、
「巡礼さん、食べていかないかい!?」
と言って、赤く茹で上がった巨大なタコを、大鍋の湯の中から丸々一匹ザバーっと持ち上げて見せてくれた。僕にはそのタコが、海から突如姿を表したグロテスクな巨大生物のように見えてしまい、その場を足早に去った。
タコの見せ方に恐怖を抱いただけで、きっと調理されて皿の上に乗れば、とても美味しいタコだったに違いない。
「名物料理も良いけれど、僕にはボガディージョで充分だ」と思い、町の食料品店でパンとチーズを買い求めると、物静かな店主は自らボガディージョを作ってくれた。彼の親切に感謝し、果物屋でオレンジも買い込むとメリデを出発した。
メリデを出てしばらくは、森の中の道を歩いた。なかなか座って休めるところもなかったので、ひたすら歩き続けた。小川の流れる場所にようやくベンチを見つけると、そこに荷を下ろしてメリデで作ってもらったボガディージョを食べた。
かぶりついたボガディージョはいつも通り美味しかった。今や僕にとってボガディージョは、巡礼をする上では欠くことのできないものになっていた。
僕にとってボガディージョは一種の精進料理のなものだ。歩くこと同様に食べることもシンプルにしていく。食事量や食事内容をある程度一定にして、それをルーティン化することで、心身共に安定していくような気がする。
何より安いし、パンとチーズは大体どこでも手に入るし、食べる際も時間と場所に縛られない。その時自分の身体が必要とする分だけ食べられるし、組み合わせも自由自在だ。いつもチーズしか挟まないのだけれど。
たまには大勢で手の込んだ美味しい料理を食べることも大切だが、質素な食事を反復、継続することで蓄えられる力もあり、余計なエネルギーを使わずに済む。
ベンチに座りボガディージョを食べている間にも、目の前の道を多くの巡礼達が通り過ぎていった。皆先へ先へと急いでいるようだった。歩いている時は、僕もあんな風にせかせかしているように見えるのだろうか。
休憩を終えると再び歩き始めた。通りがかった小さな村では道を激走する羊に出会ったり、町に出かけるようなおめかしをしたおばあさんが牛の餌やりをしているのを見かけたり、そんな田舎の日常的景色にとても癒された。
ふと、スペインの小さな農村を歩き継ぐことは、自分の心の原風景へと回帰してゆくことのように感じることがあった。
リバディソ・ダ・バイソには13時頃に到着。村の入口には綺麗な小川が流れており、その川に架かる小さな橋を渡り終えたところに、小さな公営のアルベルゲが建っていた。
そのアルベルゲの前を通りがかると、数日前に宿が一緒だった韓国人夫妻が受付をしている最中で、僕に気づくと手を振ってくれた。そこで”ちょっと寄ってみようかな”という気になり、アルベルゲへと入ってみることにした。
すると、その静かで穏やかでバイソの村そのもののように平和な宿がすっかり気に入ってしまい、今夜はもうここに泊まることに決めた。
僕は、
”誰か知り合いがいるのを見かけて”とか
”突然知り合いがそこから現れて”
といった”偶然のタイミング”を何かの良い印だと思うようにしていた。
カミーノを歩くうちに、そうやってアルベルゲやバルを選ぶことが多くなっていった、そしてそこにはいつも何かしらの良い出会いが僕を待っていたのだった。
韓国人夫妻としばし世間話をして、彼らに続き僕もベッドを確保すると、シャワー、洗濯にとりかかった。そうこうしていると、アメリカ人女性コンビのアニーとスージーも到着。
アルベルゲではWi-Fiが使えなかったので、アルベルゲのすぐ隣にあったバルへ電波と食事を求めて行ってみることにした。
そこでイタリアの友人達に連絡をとってみると、彼らはすでにサンディアゴに到着していて、今はサンティアゴよりさらに西へと歩いているところらしい。明日か明後日には再びサンティアゴへ戻り、イタリアへ帰る予定だと教えてくれた。
明日が彼らと会えるラストチャンス。そう知った時、とても悲しくなると同時にとても会いたくなった。だが僕が今いるバイソの村からサンティアゴまでは41kmもある。今までに歩いたことのない長い距離だ。
決断を迫られた。明日サンティアゴを目指すか否か。その日彼らとの連絡はそこで途絶えた。
本日のアルベルゲ
La Xunta de Galicia(Ribadiso da Baixo)
Tel : (+34) 660 396 821 / (+34) 638 962 803
公営アルベルゲ
年中無休 13時〜22時
予約不可
・宿代 6€
・ベッド数 70
・キッチン
・ダイニングルーム
・シャワー室 10
・お湯
・暖房設備
・洗濯場
・物干し綱
・洗濯機(洗濯3€洗剤と柔軟剤付き、乾燥1.5€)
・ロッカー
・コンセント
・薬箱
・広いアウトドアスペースあり
・駐輪場
・近所のバルにWi-Fiと公衆電話あり
本日の支出
項目 | € |
ナポリタナ、コーヒー | 2.2 |
ボガディージョ、クッキー | 2.5 |
オレンジ | 0.17 |
コーヒー | 1.5 |
宿代 | 6 |
炭酸水 | 1.5 |
夕食(バルにて) | 6.1 |
合計 | 19.97 |
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