【サンティアゴ巡礼】フランス人の道 – 16日目 –

サンティアゴ巡礼記

『根と重力〜五月病と宇宙飛行士〜』
5月21日 Castrojeris → Población de Campos 29.7km

 5時30分に目が覚めると、すぐに支度を始めた。いつもよりだいぶ早い。昨夜夕食を共にした台湾人のティンが、夜明け前のカミーノの美しさについてしきりに語っていたので、それを自分も見てみたくなったのだ。

昨夜の宿Ref.munic.San Esteban。居心地の良いアルベルゲだった。

 準備を終えると、まだ寝静まる寝室をそっと抜け出し、キッチンへ移動した。ティンはすでに朝食を食べていた。

 アルベルゲのキッチンには、オスピタレオが用意してくれたパンやクッキーなどが豊富に並べられている。それらの食べ物は全て巡礼達からの寄付で賄われているらしい。

 ティンは朝食を食べ終えると一足先に出発した。だがすぐに戻ってきて、
「ヒロ!月が出ていて綺麗だよ!」
と教えてくれた。

月に照らされながらカストロへリスを出発。

 朝食を食べ終えるとすぐにアルベルゲを出発した。夜明け前の村は薄暗くはあったが、道と建物が見えるぐらいには明るくなっていた。

 先ほどティンが教えてくれた通り、西の空には月が煌々と輝いていて、巡礼路はより一層神秘的に見えた。いつもと違う雰囲気のカミーノは「今日も冒険が始まる!」久しぶりにそんなワクワクした気分にさせてくれた。

やがて白んできた東の空。

 巡礼路を歩いていると、一人の巡礼に追いついた。すると夜明けの景色を眺めていた彼が
「美しい夜明けだね。」
と話しかけてきた。
「ええ。とても美しいですね!」
彼に全く同感だった。

早朝の時間を歩く巡礼も少なくないようだ。

 地上のあらゆるものがざわつき、皆がその瞬間を待っていた。風は良い知らせを運ぶのに忙しく、そこら中を駆けまわり、木々や草花はスター登場を待ちまわびる大勢のファン達のように色めき立っている。

 ティンにとても感謝したい気持ちになった。”早起きレース”を繰り広げている巡礼の、皆が皆先を急ぐせっかちな人達ではなかったのだ。

 彼らの中には、恋人に会いに行くかのように夜明けのカミーノを歩き出す人もいる。そんな僕もすっかり夜明けのカミーノに恋してしまった。

峠の中腹から日の出を拝む。

 カストロへリスを出発し、モステラーレス峠を登っていると東の空がオレンジ色に色付き始めた。やがて山の稜線から朝日の最初の光線が放たれると、その光に草木は燃えるように輝いた。毎日当たり前のようにこんなドラマティックなことが起こっているなんて奇跡だと思う。

 眩しい朝日の中を歩きながら峠を登り切ると、頂上には十字架が立っていた。その十字架には巡礼達が残していったのであろう品々が巻きつけられていた。

 巡礼達が目の前にある十字架に祈りを捧げていったのを想像した時「この奇跡のように美しい時間帯であれば、祈りもきっと届くに違いない」そう思った。

”十字架”とは”人の祈り”が具現化したものだと思う。十字架がある所には、必ず祈る人がいる。

 モステラーレス峠の上から見下ろす景色はとにかく絶景だった。白い道が小麦畑の中を突っ切って遥か彼方まで伸びている。

先は長い、のんびりと歩くことにしよう。

果てしなく続く道。今日はどこまで歩こうか。

 朝日の光を穂のように揺らす小麦畑の中をのんびり歩いていると、イテロ・デ ・ベガの手前でオンニ達が追い付いてきた。
「ゆっくりだね!朝ご飯は食べた?」
と聞かれたので、
「これからパンでも食べる!」
そう答えた。

 何気ない挨拶だけど、それが良い。少し前まで僕らは友達ですらなかったのだから。

 オンニ達はそのまま僕を追い越し、イテロ・デ ・ベガの村へと入って行った。どうやら村の入口のバルで朝食を食べるらしい。僕もバルで一休みするため村の中へと進んで行った。

村の入口に立っていたアルベルゲの看板。僕好みのテイストだ。

 「村の入口にあるバルには入らない」
これはいつの間にか僕の中の暗黙のルールとなっていた。

なぜ村で最初に見つけたバルを避けるのか。その理由は”村の入口のバルは混む”からだ。

 いつでも、村に着いた僕が最初に見つけるバルは、当然他の巡礼達も最初に見つけることになる。そのため、疲れて村に到着した巡礼達が次々にやって来て、バルは大抵混む。

なので僕がバルでゆっくり休みたい時は、村の中の地元の人達が通う静かなバルを選ぶようにしていた。

ベガの村で見つけた壁画。聖ヤコブと原発のマーク。

 ベガの村を歩いていると、道端に小さな食料品店を見つけたので、そこでコーヒーとドーナツを買い、店の前に置かれたベンチで食べた。朝食を食べながら日記を書いていると、巡礼や村人が現れては去って行った。

ベガで見つけた壁画。これまた僕の好きなタッチの絵だ。

 朝食休憩を終えると、巡礼路へと戻り再び歩き出した。村の中の建物には、巡礼やヤコブ様をモチーフにした壁画が描かれていて、どれも味があり見ていて楽しかった。中には”反原発”といった社会的なメッセージもあり、少し考えさせられた。巡礼路上ではしばしばそういった社会的なメッセージを見かけることもあった。

 次の村ボアディージャ・デル・カミンまでは8.2km、2時間もかからずに到着できるだろう。そんなことを考えながら歩いていると、視界にハエのような虫が飛び回っているのに気がついた。さっきから何だかブンブンと音がしていると思っていたのだ。

 よくよく観察してみると、ハエはそこら中を飛び回っているのではなく、僕の周りにだけ飛んでいた、というより僕めがけて飛んで来ていた。

 追い払っても追い払っても僕の顔めがけて突撃してくる。さらには、払いのけようとすればするほどに攻撃的になっていくようだった。逆に何もしないでいたところで彼らは攻撃を止めようとしない。困ったものだ。

 目の前にはカミーノの美しい景色が広がっているというのに、ハエ達の突然の襲来によってそれらの景色は一切目に入ってこなくなった。こんなことはこの2週間一度もなかったのに…。

今日も最高に良い天気だ。

ハエ達のその行動の理由を考えた結果、一番の原因は自分が放つ”匂い”かもしれないと思った。

 どういうことかというと、僕は日々シャワーと洗濯は欠かさずしているのだが、少し前にシャンプーを切らしてしまい、それ以降は身体と衣服を水だけで洗っていた。

 原始的な方法だが「入念に洗えば衛生的に問題はないはず」そう思っていた。だがエチケットに厳しいハエ達はそれを見逃さず、気づかぬうちにハエ好みの香りを放っている僕を戒めに来たようだ。

 この状況を打開するには、次の村に着いたらすぐに水道を見つけ、身体の洗えるところは洗い、Tシャツを着替えなければならないと思った。それまではとにかくハエの攻撃に耐えて歩くしかない。

 歩きながらひたすら手を振り回し、首をブルブルと振りハエを払い除け続けた。後ろから他の巡礼が見ていたらきっと”悪魔か妄想に取り憑かれた巡礼がいる…。”と背筋を凍らせたに違いない。

そうでなくとも”一見人間のようだが放つ香りは悪魔のようだ…。”と鼻を曲げたかもしれない。

美しい景色を遮るハエは僕の雑念の化身かもしれない。

 長い間ハエに苛まれ続け、ようやくボアディージャ・デル・カミンの村に着いた頃には、肉体的というより精神的にすっかりくたびれていた。村の入口にあったキャンプ場には水道がなく、少し勿体無かったが自分の水筒の水を使い、首、顔、腕、手を洗ってから、Tシャツも着替えた。

 そうすると気分はスッキリし、ハエ達はどこかへ飛び去って行った。ようやく解放されたのだ!そのことにとても安堵した。

 更に村の中へと進むと、公共の水飲み場のような場所に水道を発見。その勢いのある水で、再度入念に顔、腕、手に加え髪まで洗った。気分は爽快!鼻をかもうと昨日カストロへリスで買ったポケットティッシュを取り出した。だが袋を開けてびっくり、それは女性の生理用品のようだった。

 なぜこのようなことが起きたのか説明させてもらうと、それは昨日食料の買い出しにアルベルゲの近くのお店に立ち寄った時のことだ。

 お店で食べ物を買う際、ティッシュを切らしていたことを思い出した僕は、店のおばちゃんに片言のスペイン語とジェスチャーで
「小さなティッシュ置いていますか?」
と尋ねた。

 理解してもらえなかったのか、そもそも店にポケットティッシュを置いていなかったのか、おばちゃんは悩んだ末にアレコレ出してくれた。(「これか?」「違う?じゃあ…これか?」)

 おばちゃんが出してくれた品はどれもポケットティッシュではなかった。「また次の機会にするか」と諦めかけた時、おばちゃんはまさに日本で見かけるようなポケットティッシュの姿形をした物を取り出した。

「それです!それ下さい!」
テンションの上がった僕はそのパッケージに何が書かれているのかもよく読まずに、そのティッシュのようなものを購入した。だがそれはポケットティッシュではなく、女性の生理用品だったらしい。

 よくよく思い返せばおばちゃんは怪訝そうな顔つきでそれを手渡してくれた。その時彼女は一体どういう気持ちでいたのだろう。思い返すと笑えてきた。
「おばちゃん頼むよ〜!」
と一人でツッコミ大笑いした。と同時になぜかドッと疲れた。言うまでもなく一番悪いのは自分だった。

農業用倉庫?趣がある。

 次の町フロミスタまでは6.2km、いつもなら何でもない距離なのだが、どうしたことか歩く気力は全く湧いてこずノロノロとしたペースで歩いた。

 身体の疲れというより、もっと自分の奥深くにある”気力、活力、生命力”が尽きかけているようだった。”エネルギーの源泉”が枯渇してきているように感じ始めていた。

景色は映えず、葉のせせらぎはどこか遠くに聞こえ、まるで半分ゾンビのように歩いていた。

運河沿いをノロノロと歩く。

 なぜか無性に家族が恋しくなり、日本食が食べたくなった。しまいには泣きたくなる始末だった。

そして、僕は気づいた。
「あっ、これもしや五月病じゃね?」

夢を実現している最中にも五月病にはなるものなんだなーとぼんやり考えた。

気は乗らないがそれでも歩き続け、果てしなく遠く感じたがフロミスタに到着。

 フロミスタは自分が想像していたよりずっと大きな町だった。五月病を患っていて「お願いだから一人にして」と感傷的な気分になっていた僕は、人の多いフロミスタを通過して先の村まで足を伸ばすことにした。

フロミスタ到着。

 途中フロミスタのバルでコーヒーを飲んだ後、誤って購入した生理用品をあくまで”さりげなく”ゴミ箱に捨てて町を出た。

誰も僕のことを見ているはずはなかったが、あくまで”さりげなさ”を演出した。

世界各国の聖地への距離。

 フロミスタを出てしばらく歩くと、車道脇の巡礼路にたくさんのモホンが直線上にズラーっと並んで立っている場所があった。

それらは道を示すというより、歩くのを励まし勇気づけるかのように立っていた。

夢に見た場所。

 そこはカミーノを歩き始める前にガイドブックで何度も眺めて”いつかこの目でこの場所を見てみたい”と思っていた場所の一つだった。だがいざその場に立って考えていたことはなぜか家族のことだった。

 「皆とこの景色を分かち合えたらどれだけ素晴らしいだろう」と思った。と同時に「誰も分かち合える人が隣にいないならどんな景色も色あせて見えてしまうんだ」とも感じた。

 そこでふと「宇宙飛行士も同じようなことを感じるのだろうか?」と考えた。身近な人達や故郷も、地球同様に目に「見えぬ重力」を持っていて、僕らは離れようとすればするほど強くその影響を受けることになるようだ。

 でも「そのおかげで僕らは健全に生きられるのかもしれない」とも思った。枝のない葉はないし、幹のない枝はない、そして根のない幹はない。僕らは普段なかなか気づけないが、色々な人や物や思い出に根を張り巡らしていて、そこから栄養を得て生きている。これがアイデンティティだろうか。

 そして、栄養が不足してくるとそれがとても恋しくなるのかもしれない。その場合の栄養は、愛情であり、安心感であり、繋がっているという感覚だったりする。僕らの見えない心の根っこは、草木の根のように、互いに絡み合い助け合っているのかもしれない。

 

 フロミスタを出て、ポブラシオン・デ・カンポスの村へ着く頃には、もうヘトヘトでこれ以上歩く気にはなれなかった。村にある公営のアルベルゲを尋ねると、幸いベッドには空きがあり、アルベルゲを管理している村のホテルで受付をした。

 受付をしてくれたおばちゃんは明るく親切な人で、到着した僕にオレンジジュースを出してくれて、
「日本人の坊やね!日本人はとても親しみやすいわ!」
と言ってくれた。

 その時、親しみを込めて彼女が口にした「chico(少年、男の子という意味)」という言葉に、僕はハッとした。

たったその一言で一日中感じていた物寂しい気持ちが救われた気がした。それほどに、僕は人の温もりに飢えていたのだと知った。

 最近はもっぱら自炊をしていた僕だったが、おばちゃんの勧めるままにベッドと一緒に夕食も予約した。”誰かの作ってくれた温かい手料理を、誰かと一緒に食べたい”と切に思ったからだ。やはりそこには、無性に人恋しくなっている自分がいた。

 その夜は9€とは思えない豪華な夕食を14人の巡礼と共に食べた。皆で喋って、笑って、分け合って、温かくて美味しい夕食を食べているうちに、心が解きほぐされ満たされていくのを感じた。

 「人には人が必要なんだ。地球に重力が必要なのと同じように」
 そう心から痛感した。僕の心の奥にある泉は分け合うほどに潤沢に湧き、長くひとりぼっちだと次第にチョロチョロと細くなり、枯れてしまうらしい。

 「どこか遠くへ行ってみたい」

そんなことをずっと考えてきて今ここに至ったわけだが、その”どこか”を希求する気持ちは、結局今置かれている場所で十分な栄養を得られていないがために伸ばす浮き出た根っこの一部なのかもしれない。

 その栄養を求めて彷徨う根っこが、紆余曲折の末、どこでその”栄養”を見つけるのかと言えば、それは結局人の中なのかもしれない。

 ルーツ。心の充足を求めて伸ばす見えない根は、自分の泉の枯渇を感じると”心を満たしてくれる何か”を”外に外に”求め必死に探し始める。僕と同じように皆”繋がって満たされたい”のだと思う。

 だとすると、
”どこかへ行こうとすればするほどどこへも行けはしない”
のかもしれない。木の枝ぶりの大きさは根の大きさと同じだと聞いたことがある。つまり、もし僕ら人間を木に例えたなら、”下へ下へ”と根を張れば張るほど、”上へ上へ”と高く大きくなる。

 どこか遠くを求めて動くことは木の根が地表を出るようなもので、栄養を得るどころか木はさらに痩せてしまう。逆に今、自分自身の心と繋がっていて、身近な存在と深く良好な関係を築けたのなら、その人はそこからどんどん豊富に養分を得られ、グングンどこまでも伸びていく。

 そして、その人は精神的に豊かな環境で次の世代を育めるほどに立派に健全に成長し、幸せな木々はどんどん大きくなって森になる。それこそが人類の進化なのかもしれない。

 こんなにも長い間、人間の進化を邪魔してきたのは、外でもない技術の進歩なのではないだろうか。いつだって大事なのは、AIじゃなく愛の方だ。今、技術の進歩が見せる有害な側面に、多くの人が気づき始めているのも事実だ。

 最終的に何が言いたいのかというと、僕らは”もともとどこへも行かなくて良いのかもしれない”ということだ。

 宇宙にだって行かなくていい。大事な人と幸せに美しい暮らしをすること。その時に初めて僕らは辿り着けるのだ。”どこへも行く必要はない”と知ることがゴールがなのかもしれない。僕らはもうすでにそこにて、ただ目を開けさえすればいいのだから。

 夕食を食べ終える頃には、お腹と心はすっかり満たされ、気づけば友達も増えていた。五月病は治り、生きる活力に満ち溢れていた。

 物には必ず与えられた使命がある。目は見るために、耳は聞くために、口は話したり物を食べたりする役割を持っている。では、僕らの心の使命とはなんだろう。心はなぜ、繋がり合うことに意味を感じ、孤独や争いの中で失われてしまうのか。

 もしも世界中の人達が、今この瞬間に、隣にいる人としっかり繋り合えたなら、つまり人類の”見えない根っこ”が互いに強く絡み合い一つに強固になった時、この地球に一体どんな美しい夜明けが訪れるのだろう。

 クリスチャンではない僕が唯一知っている聖書の言葉は、”隣人を愛せよ”だ。それが今できるたった一のことであり、たった一つだけれど僕を含めた世界が達成できていないたった一つのことなのかもしれない。

本日のアルベルゲ

Albergue De peregrinos municipal de Población de Campos (Población de Campos)

 Tel : (+34) 979 811 099 / (+34) 685 510 020

 Eメール : info@hotelamanecerencampos.com

 年中無休 

 ・一泊 5€

 ・夕食 9€
 ・朝食 3€

 ・ベッド数 18

 ・キッチン

 ・冷蔵庫
 ・リビングルーム
 ・会議室
 ・シャワー室
 ・洗濯機(La casa ruralにて3€)

 ・物干し綱
 ・お湯
 ・薬箱
 ・庭
 ・駐輪場
 ・Wi-Fi
(アルベルゲを管理しているホテルにはパソコン有)
 ・コンセント

本日の支出

    項目 €
寄付 1.25
コーヒー、ドーナツ 2.2
ATM手数料  5
宿代  5
コーヒー 1.2
夕食  9
合計23.65€
 2,957円(1€=125円)

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